2024.04.09
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「詩の全体性」について気を留めた箇所をピックアップいたします。これは上田敏雄著「仮説の運動」についての評論ですが、シュルレアリスム系の詩人瀧口修造が、上田敏雄の現代詩を論じる図式が、私にとって難解過ぎて、理解が覚束ない状況になるのではないかと危惧しています。「上田敏雄氏の活動性は『仮説の運動』で一頂点に達しているのではなかろうか。これはおそらく氏の原理的主張がその詩作に決定的性格を与えようとしているからである。初期の詩の表現主義的表現、絶対的な印象の作品から発達した最近の俳優的態度の作品は疑いなく氏の現在の詩的成立の結果である。」上田敏雄の詩を読んでいない私には、詩的世界を想像で補うしかないのですが、俳優的態度の作品とはどんなものでしょうか。「上田氏はひとつの思想表現を持つ。それは機械的である。それは上田敏雄氏における文明操作ということができるであろう。しかし氏はこの地点で厳に現実と対立的となる。~略~氏の芸術は反対色のあるいはとくに近似色の現象を呈する。しかしそこに鮮烈な光線を放射することは誰れもが認めるところであろう。そしてそこに氏のあらゆる優雅なあるいはあらゆる恐るべき運動が出現する。事実上、上田氏は明白な俳優の原理を実行している。そのような場合、いかなる官能の代弁が必要とされるであろうか。単に官能は俳優の行為を行なうにすぎない。そこに主観は永遠に表出されず、しかしついに明瞭な組織の文明が展開される。」多少、上田敏雄の詩的世界が見えてきたように思います。詩は私にとって魅力的であってもなかなか自分の世界観が構築できずにいます。造形美術の基本となる形態と色彩は、自分なりの意図や意味を持たせられるのに、詩は語彙を駆使するために、そこには意味が存在し、そこに自分なりの世界観を培うことが出来ないのです。本単元を読みながら、そんなことが頭を過りました。