Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

新聞記事より「飾りのない描写」
今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「机の上の瓶より垂れる花房が短くて床に届かない、その景色を写生しただけの歌。ただ、病床に臥す俳人は藤を下から眺めている。『今を盛りの有様』なる花の、届かないというその一事を緊張の時として愉しんでいるのか、あるいは、何処かへ行き着く途上で生を中断せざるをえないであろう自身を花に重ねたのか。飾りのない描写だからよけい想像が蠢く。『墨汁一滴』から。」俳人正岡子規は日本の俳句に革新を齎せた人物として知られています。その革新とは何か、西洋美術にある写生という概念で、つまり飾りのない在りのままの描写です。見えた通りの風景を見えた通りの言葉にする、それは誰でもできるようでいて、誰にもできない表現だと私は思っています。それは作者の視点にあると私は考えていて、見えた風景のこんなところを捉えたのかと、改めて私は感心してしまうのです。完成した句はあたりまえな眼前の事を謳っているのに、どうして妙に心に届くのか、深い思考も感じられず、洒落た技巧もありません。その分、語られていない余白が気になって仕方がないという心理が働きます。そこから憶測が目を覚まし、きっと作者はこんな風情を感じ、あんな未来を予見し、そんな過去に囚われていたのではないか、と勝手な思いに駆られてしまうのです。彼の頭の中では、幾重にも思考が重なり合って、それらを昇華させ、あえて単純な言葉に辿り着いたのか、それとも何も考えず、天才肌をもって俳句を紡いだのか、そんなことは誰にも分かりません。比喩や暗喩の波間を漂い、また深海に身を沈め、さらに論理を駆使して武装を行なっている文章を、あれこれ壁に突きあたりながら把握した挙句に、ふと単純な言葉に気持ちが持っていかれるような爽快感が、正岡子規ワールドにはあると思っています。日本語の不思議な感覚を思わせる俳句の世界は、世界に冠たる文学ではないでしょうか。