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映画「存在のない子供たち」雑感
先日、常連になっている横浜市中区にあるミニシアターにレバノン映画「存在のない子供たち」を観に行きました。上映が始まると、中東の貧民窟の生活が映し出され、演出ともドキュメントとも言えない凄まじさの中に自分が放り込まれた感覚を持ちました。これは女流監督の独特な手法にあったらしく「弁護士に扮したラバキー(監督)以外は、ほとんどが映画初出演の素人をキャスティングしている。主人公の少年ゼインも、ゼインを助けたエチオピア移民のラヒルも、演じる役柄とよく似た境遇の人々が選ばれた。ラバキーは彼らに、感情を『ありのまま』に出して、自分自身を生きてもらい、彼らが体験する出来事を演出するという手法をとった。」と図録にありました。映画の冒頭で「両親を訴えたい。僕を産んだ罪で」と裁判長の質問に答えた少年ゼイン。彼は人を刺した罪で拘置所に送られていたのでした。そこから彼の壮絶な過去が語られます。両親と兄弟姉妹で暮らしていたゼインは学校へも行かず、路上で自家製のジュースを売っていたり、雑貨店を手伝ったりして一日中働かされていたのでした。妹のサハルだけが彼の心の支えでしたが、親が決めた結婚の犠牲となった妹と別れ、ゼインは家出をします。外ではさらに過激な生活が彼を待っていましたが、万引きやら違法な薬物製造も行い、移民の幼児を抱えたゼインは逞しく生きていました。面倒を見てくれたエチオピア移民のラヒルは不法就労で警察に拘束されて、ラヒルの幼い息子はゼインが仕方なく世話をしていたわけで、物乞いをしながら子供がさらに幼い子供を支える状況が語られていました。やがて妹が死んだことを知らされたゼインは、旧知の妹の夫に傷を負わせてしまいました。その罪のために拘置所にいたゼインは、社会問題を取上げるテレビ番組に電話をして、自分が置かれた現状を知らせます。そこに反響があり、冒頭の裁判所に映像が戻ります。タイトルの「存在のない」とはどういうことか、監督へのインタビューでそれが判明しました。「研究を重ねていく中で、出生届を行う資金が両親に無いため、生まれても正式な証明書類が発行されない赤ん坊が何人もいることが分かった。そういった子供たちは、法的にも社会的にも、『不可視』な存在となってしまう。正式書類が無いが故に、死んでしまう子供たちも沢山いる。その理由の多くは、育児放棄、栄養失調、もしくは単純に病院での治療が受けられないから、というもの。」子供たちは生まれてこなければよかったと言っていて、国の経済政策によって人権までも侵害される現状を、この映画は全編を使って強く主張していると感じました。それを描き出した監督の力量に拍手を送ります。