2025.08.12
「芸術家列伝2」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「アンドレーア・デル・サルト」について、2つに分けて気に留まった箇所をピックアップいたします。「アンドレーアは1478年フィレンツェで生まれた。父親は仕立屋という職業に従事していた。アンドレーアがデル・サルト(仕立屋のアンドレーア)という名前でいつも呼ばれた理由はそこにある。さて彼は七歳になった時、読み書きを習う学校から下げられて、金工師のところに修業に出された。だがそこで金銀細工をするために鉄具を扱うよりも、天性のしからしむところが、デッサンを描くことの方をずっと好み、いつもそれに励んだ。~略~天性画家に生まれついていたアンドレーアは、その天性が働いたお陰で、色彩を用いることがいかにも優雅で、まるで50年間その仕事に打ち込んできたかと思わせるほどであった。それでピエーロ・ディ・コージモはこの少年に非常に目をかけ、この少年が多少でも時間があるとか祭りの日とかには一日中他の若者と一緒にミケランジェロの下絵やレオナルド・ダ・ヴィンチの下絵のある『法王の間』でデッサンをして時を過ごしていると聞いて、信じがたいほどの喜びをおぼえたのであった。」フランスとの関わりがある箇所がありました。「アンドレーアがフィレンツェでこうした作品を制作しながらとくに頭角をあらわすこともなくかなり細々と暮らしを立てていたころ、彼がフランスに送った二枚の絵は国王フランソワ一世によって評価された。そしてローマやヴェネツィアやロンバルディーアから送られた他の多くの絵と比べてはるかに上であると判定されていた。それでフランス国王が絶讃されたので、アンドレーアは喜んで国王陛下にお仕え申すべくフランスに参るでしょう、それはいとも容易でございます、というお答えが家臣の口から申し述べられた。~略~国王のために『慈愛』を制作したが、世にも稀なる作品と評された。~略~だがある日、国王の母のために『悔悛する聖ヒエロニムス』を描いていた時、フィレンツェから何通かの手紙が届いた。それは彼の細君が書いて寄越したもので、アンドレーアは、理由が何であったにせよ、帰国することを考え始めた。それで国王に許しを乞うと、フィレンツェへ戻って自分の用件のいくつかを片付けたならまた必ず陛下のものへ戻って来、そこでもっと落ち着いた生活ができるよう自分と一緒に妻も連れて来る、そして戻って来る際には価値ある絵画と彫刻とを持参する、と言った。~略~本人はとにもかくにもフランスへ戻ろうとしたが、自分自身の利害や国王に対する誓言よりも妻の涙や泣言の方が結局勝ちを制した。」今回はここまでにします。