Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「魔術」について

「綺想の美術廻廊  種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「魔術」について、気に留めた箇所を取り上げます。「サディズムは、やがてその究極において、対象の破壊を愛すのみにとどまらず、破壊された対象、すなわち屍体をさえエロティックな対象として愛するネクロフィリアに転ずるにいたる。」「色としての黒とあらゆる色の不在としての黒がある。後者の方の黒を、生きている人間である私たちは体験することができない。それを体験しているのは、目と口がうつろにひらいた死体だけだからだ。かりにその絶対の暗黒の体験を語り得るものがいるとすれば、それは死体の分身でしかない。だからその言葉は死体のなかから身を起こしてきた言葉である。」「鏡の面か水面のようなものを思い浮かべていただきたい。それは、そこに映るあらゆるものを左右あべこべにしてしまう。しかし、この左右転換が正確におこなわれるためには、いうまでもなく鏡面そのものはつねに一分の狂いもなく明晰でなくてはならない。悪魔はいわばこの鏡面のようなものであった。万象がそこで右と左とに転換されながら鏡面の向う側へ通り抜けていくためには、鏡面そのものは(悪の絶対主義という)寸分狂いない明晰を片時も手放してはならない。」「死の舞踏、もしくは死者の舞踏は、一口にいえば死神を踊り手として演じる、死の観念を中心にした舞踏である。その意味では、死の舞踏はかならずしもキリスト教中世独自の現象ではない。チベットの死者の踊りも、エトルリアの墓の浮彫も、踊る骸骨の姿を描いている。」「彼は世界のいたるところにいながら世界といっかな接触しないファントマであり、対象のあらゆる細部を観察しながらそれから絶望的に隔てられている覗き仕掛を覗く少年に似ている。一切を掌中にしながら一切と接触不能なのである。」「今にして思えば、私は、手掛りはあくまでも美であるが、その目に見える輝きの背後に隠されながら、しかも現象界の美を産出している。硬質にして不壊なる光源に到達しようと躍起になっていたもののようだ。いわば美そのものではなくて、美の秘密が探究の目的であって、その見えない秘密の探究を通じて目に見え(造型美術)、耳に聞こえる(言語表現)美そのものも、全体の構図のなかに正しく位置づけられるに違いない、と確信していたのである。」今回はここまでにします。