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映画「ダンシング・ベートーヴェン」雑感
先日、常連になっている横浜のミニシアターにバレエ公演を映画化した「ダンシング・ベートーヴェン」を家内と観に行きました。これは天才振付家モーリス・ベジャールがベートーヴェンの「第九」を集団による舞踏で表現したもので、オーケストラや合唱団を加えると総勢350名にもなる一大プロジェクトです。「ダンシング・ベートーヴェン」は、ベジャール亡き後、途絶えていた演目をモーリス・ベジャール・バレエ団と東京バレエ団の共同制作によって2014年に東京公演で復活させた記録映像を収めた圧巻の映画でした。メイキングではスイスのローザンヌと東京を行き来して、過酷な練習に励むダンサーたちの情熱や葛藤を捉えていました。ダンサーの中には妊娠が発覚して交代を余儀なくされたソリストが描かれたり、追加のダンサー募集の場面が描かれたりして、現実にあった場面を挿入して演目を作り上げていく過程での臨場感がありました。ダンサーたちがそれぞれ発揮する強烈な個性は、それを支えるイスラエル・フィルと指揮者ズービン・メータにも強烈な力があり、それらが渾然一体となってシンクロしていく過程に、交響曲の響きとともに私たち観客は惹きつけられていきました。語りは芸術監督ジル・ロマンの娘で、アランチャ・アギーレ監督はこの女優マリア・ロマンを通して映画としての主張を伝えていきたかったのかなぁと思いました。パンフレットにプロローグでの朗唱の台詞が載っていました。ニーチェの「悲劇の誕生」の一節です。「ベートーヴェンの”歓喜”の頌歌を一幅の画に変えてみるがよい。幾百万のひとびとがわななきにみちて塵にひれ伏すとき、ひるむことなくおのれの想像力を翔けさせてみよ。そうすれば、ディオニュソス的なものの正体に接近することができるだろう。」(西尾幹二訳)ニーチェはアポロン的なるものとディオニュソス的なるものを対比させ、官能性や感情が主たる要素を占める音楽や演舞はディオニュソス的と称していました。まさに「ダンシング・ベートーヴェン」はその極意と言えるかもしれません。