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「Ⅵ インタヴュー」のまとめ&読後感
「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅵ インタヴュー」のまとめを行います。この章をもって本書は完結になります。日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチは、その生涯においてさまざまな創作的体験をどのように聞き手に語ったのか、興味深いところも散見されました。ここでは2人のインタヴュアーが登場します。一人はキャサリン・クーで、もう一人はポール・カミングスです。クー氏との対話で気になった箇所は粘土に纏わるノグチの意見があり、私自身が陶土を扱っているため、どうしても気になってしまうのです。「粘土のような媒体ではなんでもできるからだ。で、それは危険だとぼくは思う。あまりにも流動的、あまりにもたやすい。たとえばロダンにはすさまじいほどの表現の自由があったー実際にロダンは表現主義者だったーだが、もっとも彫刻的な彫刻なのだろうか?それは絵画のほうに似ている。ロダンのような自由とは、ぼくにとっては一種の反彫刻だ。石のような素材で仕事をするとき、ぼくはそれが石に見えることを望む。粘土なら、どんなものにも見せられるーそれが危険なのだ。」カミングス氏との対話では「抽象芸術を抽象芸術として制作することへの疑問ーぼくにもコンスタンティン・ブランクーシのせいでヨーロッパでそういう時期があったが、そう長くは続かなかったーそれはアメリカというぼくのバックグラウンドー〔抽象に対して〕多少懐疑的ーとなにか関係があるんじゃないかと思う。それについてピューリタン的な考え方をする傾向とも関係があるだろう。抽象をちょっと道楽だと感じるんだ。~略~ぼくにとってそれを乗りこえる唯一の方法は、アートという理由以外にアートをする理由を見つけること。ひとつの目的をもっていなければならなかった。」とありました。公園や庭の設計に携わったノグチは、人々が集う広場の考え方を彫刻表現として認めていたことがこの台詞から読み取れます。「イサム・ノグチ エッセイ」では、ノグチが空間表現を洞察に満ちた哲学的思索として捉えていることが、私には印象的でした。空間は哲学であると私も感じていて、私がこうした文章を書いているのも自分の思索のために他なりません。本書はあらゆるところに示唆に富む内容があり、創作活動を自分が展開する上で参考になる書籍だったと思っています。