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「ニコライ堂の鐘の音」のまとめ①
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「六章 ニコライ堂の鐘の音」の前半部分をまとめます。この章では円熟期を迎えた聖像画家山下りんとその関わりのある方々や時代が移り変わっていく社会情勢のことが描かれています。いよいよ小説も終盤を迎えることになりました。「明治三十八年八月、亜米利加(アメリカ)のポーツマスという地で講和交渉が始まった。奉天での戦の後、日本の東郷艦隊はバルチック艦隊を撃破、ロシアの海軍力を失わせしめた。一方、日本側も陸軍の戦力が限界に達し、戦争はもはや継続困難となったらしい。日露両国は亜米利加のルーズヴェルト大統領の斡旋を受け容れることにしたのである。~略~戦勝の報に沸きに湧いた熱気はたちどころに冷え、政府批判の狼煙が上がった。政府はいったい、国民を何だと思っておるのか。戦費を出させる時は議会だとか何だとか騒いで金を出させておいて、肝要なる講和条件となると独断だ。そして、ろくでもない結果を国民に押しつける。戦費と兵卒を、誰が出したと思っている。」りんを取り巻く人々も大聖堂や神学校を中心に、さまざまな動向がありましたが、前半部分で大きなことはニコライ大主教の逝去でした。大主教は寿命を悟ってか、生前にりんの工房を訪ね、制作中の聖像画を見て感想を言っていました。これは小説ならではのことかもしれませんが、さもありなんと思わせるところが小説の巧みなところで、この場面には説得力がありました。「二月二十二日、葬儀が執り行われた。朝五時から大聖堂内の側堂で聖体礼儀が行なわれ、十一時に鐘楼の鐘が鳴った。すでに駿河台の周辺は人々が溢れ、その中から馬車が次々と現れる。各国の大使や政府、軍の高官たちだ。祈祷はセルギイ主教を司祷者として、朝鮮の掌院パウエル師、長司祭ブルガコフ師、そして三十二名の日本人司祭と五名の輔祭が加わった。祈祷は日本語で、ただし正教で用いるスラブ語でも連祷と呪文が唱えられた。」今回はここまでにします。