Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「美学事始」を読み始める
私たちが日常使っている「美術」というコトバや、その根拠となる「美学」とは一体何でしょうか。そのコトバはいつから日本にやってきて、その曙期にはどんな摩擦が生じたのでしょうか。私はそれらを把握し、深く理解したいと思い、「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)を読むことにしました。本書は自宅の書棚に眠っていたもので、いつ頃手に入れたものか忘れてしまいましたが、我が国の近代を知る上で重要なものだろうと思っています。「序文」にこんな文章がありました。「『美学』という学問が定着するには、そのための出会いの場、あるいはそのための舞台というべきものが用意されなければならなかった。その一つが、明治十五年、龍池会で行われたフェノロサの一場の講演『美術真説』であった。文学の世界でこれに対応するものを探すとすれば、坪内逍遥の『小説神髄』がこれに当たるのではなかろうか。『修辞及華文』にしろ『維氏美学』にしろ、これらは当時の停滞したままの日本の芸術や文化の実状をまるで無視した、上からのお仕着せの啓蒙主義でしかなかった。それに対して『美術真説』や『小説神髄』が大きな反響をもって受け入れられたのは、東西の芸術の違いを取り上げて比較するという、現実に即した目配りがあったればこそであろう。」明治時代の文明開化で一旦は忘却された日本の文化財、そこに警鐘を鳴らしたのは思想家岡倉天心でした。「文明開化という言葉に踊らされて、西洋かぶれしてしまった日本人の手からいったん離れた文化財が、ここで装いを改めて帰ってきたのである。すなわち『書画骨董』改め、『美術』という名前をもってである。この『書画骨董』を『美術』に変える仕掛けが『美学』に他ならない。この困難な仕事を最初に手がけたのが、岡倉天心であり、その成果が、東京美術学校で講じた『日本美術史』から始まった、天心の数々の著述や講演であったのである。」言うなれば「美学」も「美術」も西洋の概念であり、明治時代に日本の文化財も含めて、その概念によって現代のものが形作られてきたのでした。「まずは『美学』という、西欧の『人文学』が明治期という日本近代において、どのように受け止められ咀嚼されてきたか、またそこに自らの固有の美意識をどのように反映させようとしてきたのかを、もう一度反省してみる必要があろう。」本書はこの文章が美学への導入になっています。