Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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造形における哲学の存在
彫刻作品は日用雑貨とは違い、用途がないため純粋に形態だけを眺めていられます。それは人間が何かを形作る考え方を反映しているとも言えます。先史時代、人間は獲物を確保するため万物に祈り、それの具象化を図って、壁画や造形物を作ったのではないでしょうか。宗教の発生と彫刻は密接な関係があるはずで、形に祈りを込めていました。それと同時に生活の利便性を求めて、食器や食料を貯蔵する容器を作ってきました。絵画や彫刻が文化を担うことになったのは、人間の心の在り方にあって、生活雑貨とは違う次元にあったのかもしれません。絵画や彫刻の存在を、心の在り方に価値を求めるならば、そこに哲学があるはずで、造形に用途がない分、眼に見える哲学を示唆していると言っても過言ではありません。先日見に行った「デ・キリコ展」にあった形而上絵画は、まさに哲学的解釈をデ・キリコが試みた結果だったと私は考えています。そこに登場する哲学者ニーチェやショーペンハウアーは、私も彫刻をやる上で参考にした偉人たちでした。造形芸術をアポロン、音楽芸術をデュオニソスと象徴したニーチェの論考や、表象を定義したショーペンハウアーに、私は造形そのものの意味を問うことをやっていました。「人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、太陽を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。」(「意志と表象としての世界」ショーペンハウアー著 西尾幹二訳 中公クラシックス)とあったため、存在とは何かを求めて、私はハイデガー著「存在と時間」を紐解くことになったのでした。彫刻とは何かを考える際に、そもそもモノがそこに存在するとはどういうことか、純粋に形態だけを眺めていられることが学問的考察を呼び覚ましていくのは自然なことなのだろうと思っています。