2024.06.27
今日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「凡庸な絵かきというものは…辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。洲之内徹」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「描きあぐねて、そこを無理に塗り潰すのは凡庸な画家。批評家も同じで、絵から何かを感じるのに努力は要らぬが、絵を見るには修練が必要だと、作家・画廊主は言う。己の解釈で対象をねじ伏せようという『ケチ臭い分別』ほど邪魔なものはないと。随想『セザンヌの塗り残し』(椹木野衣編『洲之内徹ベスト・エッセイ1』所収)から。」美術批評家洲之内徹の「気まぐれ美術館」(「芸術新潮」連載)を、私は学生の頃に時折読んでいました。ちょうど私は大学で彫刻を学び始めていて、当時流行した最新の美術評論に興味を抱いていました。まだ習作として人体塑造をやっていたにも関わらず、現代美術の動向に左右されてしまっていた私は、自己表現もままならないくせに、頭でっかちになっていました。前衛的な考察や評論は魅力的だけど、少し待っておこうと考えた私にとって、旅行日記のような「気まぐれ美術館」は楽しいものでした。私自身が足元を見つめ、自己表現の何たるかを考えつつ、美術雑誌に掲載された批評を注意深く選択していくのは、ずっと後になってからのことです。「ケチ臭い分別」は邪魔だと言える批評家に共感するのも、私なりに時間がかかりました。あの頃、最新の美術評論のことで意見を言い合っていた当時の仲間たちは今どうしているのだろうと思うこともあります。器用だった友人はコンクールで賞を取り、その後作品世界の辻褄を合わせようとして…という前述の文章に私も思い当たる節があります。何が正解か、どうしたら芸術の道を全うできるのか、誰も分からないからこそ、創作活動は面白いのかもしれません。