Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

信仰について考える
工房での陶彫制作の合間に給水タイムを設け、暫し休んでスマホを見ていたところ、ネットのニュースで信仰に関わる衝撃的なニュースが流れていました。サウジアラビアのメッカで、イスラム教の巡礼者が大勢集まっていたところ、熱中症で500人以上が亡くなったというニュースでした。これはイスラム大巡礼「ハッジ」で、黒い立方体の周辺には大勢の巡礼者がいる風景画像を私は見たことがあります。あの黒い立方体(カアバ神殿)にはイスラム教徒しか近づけないため、私は実際にそこに行くことは出来ません。そこで休憩時間に私は信仰についてボンヤリ考えていました。以前のNOTE(ブログ)にも宗教や信仰について書いたことがあります。アーカイブを調べると「民族と宗教との関わりを考えはじめた動機は、現在読んでいる『人間モーセと一神教』(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)によるものです。自分にとって宗教は生活全般の中でも大した影響はなく、冠婚葬祭の時に触れる程度のものなのです。祖父母、両親から受け継いだ寺社に対する感覚は、精神性を伴わず、至って形骸化した儀式であると思っています。」(2016年6月7日)「自分は本当の意味で信仰をもっているのか、信仰がどういうものか理解しているのか、という素朴な疑問があります。神に対する従順と信頼は、自分には怪しいもので、そこを問われると答えに窮します。信仰は自分で意図的に身につけるものなのか、意図せずに生まれてくるものなのか、自分にはわかりません。~略~フロイトの言う超自我は、外に向けて自分を保ち、内向きで弱い自分を見せないような要求をしてきます。信仰とはそんな自分の中でバランスをとるための欲求かもしれません。前述の導入文の答として、人間を超えた存在が希望を叶えてくれるかもしれないという他者依存の現われが信仰だと私は思っています。それがたとえ宗教でなくても、信仰は思考したり感受したりできる人間に本来備わっているものではないかという解釈をしているのです。」(2016年6月8日)ということをあれこれ書いていますが、信仰が自由な日本だからこその発想です。宗教や信仰のために命も惜しまないことを理解できない自分が、メッカでのニュースに衝撃を受けることもあり得るなと思ってしまいます。