2024.09.15
日曜日になりました。週末には創作活動について述べさせていただいています。私の代表的な彫刻作品は集合体によって完成するものが多く、単体のものは僅かしかありません。集合彫刻は、陶彫部品を組み合わせて巨大化するものもあれば、陶彫部品を点在させて場を創出するものもあります。場の創出は、亡父が生業にしていた造園の影響が、私のどこかに眠っているようで、庭園のようなイメージが頭を過ります。庭園は、庭石や樹木や芝生、さらに生垣や池の造成といった構成要素を盛り込み、日本古来の伝統に支えられた美学が存在していると私は考えます。私が行っている彫刻は、明治時代に西洋からその概念が入ってきたので、私たち日本人にしてみれば、庭園に比べて彫刻の歴史はまだ浅いと言わざるを得ません。勿論、世界的に見れば彫刻の歴史は古く、彫刻を定義する以前に遡れば、先史時代から存在する表現方法です。私は自分で決めた空間範囲を設定し、そこに立体を点在させて場の空間を演出するのは、個展の常套手段になっていますが、庭園も場を区切ってその内部空間を造成していると考えると、彫刻にしろ庭園にしろ創作する空間の範囲がある以上、構成要素が違うだけで見せ方としては同じなのだろうと思います。ただし、彫刻は四方八方から見渡せるのに対し、庭園は庭石や池を樹木が覆い隠し、その隙間から風情を鑑賞するのです。2020年2月27日付のNOTE(ブログ)にこんな一文があります。「庭石の肌や見え方に従って石を置く位置を少しずつ変えて、石と石の関係性を大切にする、また植木の枝ぶりを見て向きを決定する、そんな父の指示によって、若い職人たちと半端職人の私は力を振り絞っていました。何のためにそんなことをするのか、これは風景の模倣であり、象徴化された自然を再現することにあるのです。己の造形的主張より自然との融合を優先する考え方は、まさに『断定的主張の欠如』なのだろうと思っています。」これはイサム・ノグチの伝記にあった箇所を参考にして書いたもので、亡父が言っていた庭園の考え方を思い出しました。庭園は風景の模倣であっても空間範囲は決まっています。彫刻も同じですが、その意図がなければ、作品を覆い隠すことはありません。彫刻は自然の再現ではないと言えます。