2025.09.22
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の最初の章は「だれがデイジー・ミラーを殺したのか」という題がついていて、内容は主にイタリアのローマにある巨大な円形建造物コロセウムに纏わる廃墟論が展開されていました。「私がコロセウムを例に取り上げたのは、いかに廃墟というものがバラエティーに富んだ反応を人々にもたらすのか、それを示したかったからである。コロセウムではおのおのの観光客が、それぞれ自分の想像力によって、失われた断片を補わざるをえない。それゆえに廃墟はまた、すべての人の眼前に異なった姿で現われる。これは真実明らかなことだった。」まず、エドガー・アラン・ポー。「ポーは進歩を旨とする科学万能の時代に生きたのだが、彼は徹底した反実証主義者だった。~略~ポーは『ユリイカ』というエッセイの中で、宇宙は物理学や天文学によって確定されるようなものではないと述べている。宇宙は『影のように絶えず変化する領域で、今、小さく縮んでいたかと思えば、次の瞬間には大きく膨らむ。それは揺れ動く想像力のエネルギーによって変化する世界である』。ポーがコロセウムの銅版画を見たとき(それはピラネージの描いた、目もくらむような、コロセウムの鳥観図だったかもしれない)、彼がそこに見たものは、おそらく石の集積物だけではなかっただろう。脈打つことを止めない、永遠で不可思議なエネルギーの源を見ていたにちがいない。」次にアドルフ・ヒトラー。「ヒトラーの頭に取りついた廃墟という妄想。この事実が、われわれの廃墟を懐かしむ気持ちに、はたして水を差すことになるのだろうか。答えは『ノー』である。それはむしろ反対といってよいだろう。なぜなら、ヒトラーにとってコロセウムは廃墟ではなかったからだ。彼にとって廃墟はひとつの記念物だった。たとえてみるとヒトラーは、コロセウムを半分空になった瓶というより、むしろ半分水の残った瓶として見ていた。つまり彼は、何はさておき石造建築の耐久性に惹かれていた。皇帝の野望が物理的に存続すること、そのことに何よりも魅力を感じていたのである。しかしそれなら、廃墟を愛する人たちはどうなのだろう。彼らにとって廃墟の魅力とは、脆弱性や移ろいやすさがはっきりと視覚で確認できる点にあったのでないだろうか。詩人や画家たちは廃墟を好んだが、独裁者や専制者たちは記念物を好んだということかもしれない。」今回はここまでにします。