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映画「沈黙ーサイレンスー」雑感
先日、遠藤周作の著作をマーティン・スコセッシ監督が映像化した「沈黙ーサイレンスー」を観てきました。3時間にも及ぶ大作は、長さを感じさせないくらい鬼気迫る場面が多く、また信仰を中心に据えた人の生き方について考えされられることもありました。時代は1640年江戸時代初期、舞台は日本の九州でした。日本で布教していたイエズス会の高名な宣教師が、厳しいキリスタン弾圧に屈して棄教したという情報が西欧に伝わり、それを確かめるべく2人の宣教師が来日してきます。2人は幕府の弾圧を恐れて潜伏しますが、隠れキリスタンの農民たちに助けられ、そこで布教活動を行うことになります。幕府の取り締まりが厳しく、農民に残酷な仕打ちがあり、それでも彼らは信仰を捨てなかったため処刑されてしまいます。宣教師2人は別々に行動することを余儀なくされ、一人は滅ぼされたキリスタンの里を彷徨っているうちに侍に捕らえられてしまいます。もう一人の宣教師は処刑される村人を追って海中で水没させられてしまうのです。捕らえられた宣教師は棄教を迫られます。そこに彼らが探していた高名な宣教師が現れ、キリスト教を棄教し仏教徒としてとして生活している姿を見せられます。「この国は沼地のようでキリスト教は馴染まない。」信仰心の強い彼の前にキリストの踏み絵が用意され、棄教を強制されるのです。そこに内なるキリストの声が…という内容で映画は進んでいきます。私が注目した役はキチジローという日本への手引き役で、言うなれば日本人ガイドです。キチジローは軽々と踏み絵をして棄教と密告を繰り返し、人間としての信念を疑う弱者として描かれています。キチジローはそのたびに宣教師に赦しを乞いに現れるのです。聖書に登場するユダのようです。彼を単なる弱い人間として捉えていいものか、信仰の在り方を巡って私は迷うところがあります。次第に不寛容になっていく世界情勢が人々を困惑させている昨今、赦しとは何かをこの映画は問いかけているようにも思えます。また信仰や信念は表だったカタチとして表すものだけなのでしょうか。高校時代、原作を読んだ私は理解できないことが多く、こんなことのために何故命を捧げるのか、カタチはどうあれ、心に秘めた信仰もあるのではないかと思っていました。また別の機会に内なる信仰や信念について考えてみたいと思っています。