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週末 神保町の岩波ホールへ…
週末になりました。今日は工房の作業を止めて、東京神保町にある岩波ホールに出かけました。岩波ホールは久しぶりに来ました。ここは学生の頃から通い続けているミニシアターですが、新型コロナウイルス感染症の影響で暫く遠のいていたのです。最近は感染者が落ち着いてきたので、映画鑑賞を再開しようと思っています。ちょっと前に横浜のシネマジャック&ベティにも行っていて、また映画三昧の日々がやってくると思うと胸が躍ります。家内は邦楽器演奏があったため今日は私一人でした。神保町は古本屋街でもあり、上映より1時間早く到着した私は、これも久しぶりに数軒の古本屋を覗いてみたりしました。古書の画集や洋書を扱っている店も昔の面影を残しており、私は学生時代に何冊か購入している記憶が戻ってきて、懐かしさで気持ちが一杯になりました。私が個展をやっている銀座は老舗がなくなりつつあるので、神保町は変わらない雰囲気を保っていてほしいと願うばかりです。今日岩波ホールにやってきた目的は映画「ユダヤ人の私」をどうしても観たかったからで、「ホロコースト証言シリーズ」第2弾の映画です。第1弾はゲッベルスの秘書ブルンヒルデ・ポムゼルの証言を記録した「ゲッベルズと私」で、これも私は岩波ホールで観ています。これはオーストリア映画ですが、ナチスに加担したオーストリアを批判する証言が出てくるのに、よくぞ彼の国で作られたものだと感心します。世界的な負の遺産は、体験者がいなくなる前に真実を記録しておかなければならないという使命があったからでしょうか。その内容に関しては悲惨さを極めるもので、筆舌に尽くし難い内容がありました。決してヨーロッパという遠い国々で起こっていたものとは考えられない人種を超えた凄まじさがありました。詳しい感想は後日改めますが、私は1980年から85年までをオーストリアのウィーンで過ごしています。当時、私が籍を置いていたウィーン国立美術アカデミーは独裁者ヒトラーが入学を認められなかった学校です。若かりし頃、画家を志していたヒトラーが、もしアカデミーで絵画の修業に励むことが出来ていたら、世界の情勢はどうなっていたでしょうか。ヒトラーは青年時代に反ユダヤ主義を経験し、それがホロコーストに繋がったと言われていますが、確かにユダヤ人は経済活動や芸術活動に長けた人が多かったように思います。私のアカデミーの友人たちもそうでした。「ユダヤ人の私」のマルコ・ファインゴルトは4つの強制収容所を体験し、幸い生き延びた人でしたが、ウィーンへの帰還を拒否されています。ヒトラー亡き後もユダヤ人を遠ざける政策が続いていたことに驚きました。