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「デッサウのバウハウス 造形大学へ」のまとめ
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第五章 デッサウのバウハウス その一 造形大学へ」をまとめます。ヴァイマルからデッサウへ移転することになったバウハウス。「ここにグロピウスを始めとしてカンディンスキー、クレー、モホリ=ナギ、ムッフェ、シュレンマーらの親方が、ヴァイマルでの残務整理を済ませて次々に引っ越してきた。躊躇していたファイニンガーも授業を直接担当しない約束のもとに移ってきた。~略~グロピウスはヘッセ市長との協議の下に新しく定款を制定し、これがアンハルト邦内閣により承認され、1926年10月末バウハウスは造形大学として認可されたのであった。つまり市立の大学として、設備はデッサウ市に所属しながら、アンハルト邦政府教育局の監督下に置かれたのである。」新生バウハウスでは校舎や親方用住宅の建設が始まり、落成式を迎えました。「この日はバウハウス人にとり、なかんずくグロピウスにとり恐らく生涯における最良の日であったに違いない。理想的な活動と生活の場を創り得て、今までの長い悪戦苦闘の日々も一挙に雲散霧消する思いがしたことであろう。当日のベルリンの『フォシィシェ・ツァイトゥング』紙には美術批評家マックス・オズボンが『単にドイツのみならず全世界から、芸術に関心のある人士が、今後この友好的な都市デッサウへ、バウハウスの新しい建築群に示されている今日の芸術意志の感嘆すべきドキュメントを知るために、巡礼するであろう』という書き出しで、この校舎と教員住宅の建築につき詳細に報じていたが、この言葉は決して誇張ではなかった。」その活動を記した出版活動があります。「バウハウス叢書はグロピウスとモホリ=ナギの共同編集により、ミュンヒェンのアルベルト・ランゲン社から刊行されたが、その意図するところは、1927年のものと思われる案内パンフレットによるならば、あらゆる造形領域は相互に密接に連関しているという認識に基づき、芸術的・科学的・技術的諸問題を扱うことにより、専門分野に拘束された現代人に各種の造形領域で問題設定と研究法とその所産を闡明し、これによって個別的知識の比較の基準と他の分科における進展を作り出そうとするものであった。」軌道に乗ったバウハウスでしたが、やがてグロピウスの辞意表明がありました。「グロピウスが苦心惨憺して育ててきたバウハウスから突然去ることになった真因は何であったのであろうか。先の書翰にみる限りでは、建築家本来の仕事に専心したいという欲求と、バウハウスが一人立できるという判断から引退を決意したのであり、我々はこれをそのまま素直に受け取るべきかもしれない。しかしまさにそのような引退を望むに至った理由となると、そう簡単ではない。~略~恐らくドイツでバウハウスほど毛嫌いされ迫害された学校は見当たらないのであって、グロピウスみずから仕事の九割は対外的防衛線であったと言うのも、あながち誇張ではなかったと察せられ、彼がこのような時間の浪費と思われる仕事にふと嫌気がさしたとしても不思議はない。」