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「ベルリンのバウハウス 首都での閃光」のまとめ
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ベルリンのバウハウス エピローグ 首都での閃光」をまとめます。この章は番号ではなくエピローグ(終章)になっています。「ベルリンへ大部分の教師と学生がデッサウから移ってきて、開校の準備に忙しく立ち働いた。電話器製造工場の内部を改造して十二教室を作り、デッサウのバウハウスから譲り受けた種々の器具備品類を運び込んだ。~略~こうして1932年10月25日、格別の儀式もなく、しかし希望に満ちてベルリンのバウハウスは冬学期の授業を開始した。」しかしこの希望も束の間で、ナチスによる弾圧が始まったのでした。「4月11日(1933年)、突如、バウハウスはベルリン警察とナチスの突撃隊に家宅捜索を受け、建物を封印されたのであった。強制捜索の表向きの理由はデッサウ検事局の指示による共産主義文書の押収ということであった。~略~ナチスは依然ベルリンのバウハウスもボルシェヴィズムの牙城とする見方を変えていなかったから、事実はそれらしきものが何も発見されなかったにも関らず、非合法文書を没収したとのデマを流して、封鎖を正当化しようとしたのである。」学長のミース・ファン・デル・ローエは教授会で財政困難を理由にバウハウスの解散を決定しました。それを学生にも知らせたのでした。こうして革新的な教育を推進しようとしたバウハウスは完全に閉鎖されました。バウハウスは歴史の記録から消されても、人々の記憶から消されることはなく、現在でもその理念が生きています。私が美大受験生だった頃にバウハウスの存在を知らされ、当時私は工業デザイナー希望だったために、この独特な教育方針を有する学校は、私の夢となり、また記憶に深く刻まれました。どうしてバウハウスの理念は生き残ったのでしょうか。「しかしこれによってバウハウスの理念そのものが消滅したわけではなかった。故郷へ帰った者によって、ドイツから追われてパリへ、ロンドンへ、新大陸へと亡命した者によって、むしろバウハウスの精神は世界的規模において展開継承されることになるのである。」本書にはもうひとつのエピローグがあり、その舞台はアメリカです。それはまた次回にいたします。