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「ニュー・バウハウス」のまとめ&読後感
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ニューバウハウス エピローグもうひとつ」をまとめます。「バウハウスは1933年ベルリンにおいてナチスの弾圧のもとに消滅した。しかしこの消滅は死滅を意味しなかった。バウハウスの理念は世界的規模で拡がるのだが、とりわけ米国には創立者グロピウスを始めとして多くのバウハウス人が移住し、さまざまなかたちでその理念が浸透し展開していった。~略~ニュー・バウハウス設立の準備をしたのは、シカゴの芸術・工業協会であった。」ニュー・バウハウスはモホリ=ナギを学長に据えて開校しました。米国ではどうだったのか、こんな文章がありました。「大部分の者がバウハウスについてよく知っており、すでに大学や美術学校での高等教育を修了した者が大半で、ある学生はニュー・バウハウスに大学院の積りで入ったという。すなわち米国でのいわば旧式の造形教育に飽き足りない連中が、新しい素材・方法・理論による教育を求めて、またヨーロッパの最新の芸術運動の担い手たちと接触できると期待して集まったのである。」ところがニュー・バウハウスも破綻の憂き目に会います。「スポンサーである美術・工業協会が財政難に陥ったため、わずか二学期間続いただけであっけなく閉鎖されてしまうのである。~略~この閉鎖はあやふやな財政的基盤の上に学校を発足させた協会の失敗であって、決してニュー・バウハウス自体の失敗と解されてはならない、どこか他の経済的援助をしてくれるところは無いだろうか、と公に訴えたのであった。」その後はデザイン学校として存続していたようでしたが、バウハウスの名称は使わないことにしたのでした。バウハウスの試みはさまざまな形で現在に受け継がれてると私は感じています。たとえば大学のデザイン科の分野において、その専攻の原型となったのがバウハウスだったように思います。私は美術の専門家になりたいと10代の頃に思っていて、社会貢献が出来るものは何だろうと考え、工業デザインの道を選びました。若いくせに我ながら立派な考えを持ったものですが、そのうち社会貢献などどうでもよくなって彫刻の道に迷い込みました。芸術性の制限が自分なりに厳しいと感じたために、自由な世界に身を投じたのでした。社会貢献は教職に就いて補いましたが、その後数十年間自分がやりたいことと生活のための経済活動を並行し、かなり歪んだ生活を送る破目になりました。私にとってバウハウスはいろいろな課題を提供してくれる刺激的な教育機関なのです。そんな思いがあったので滞欧中に原語による書籍を収集してきましたが、結局今回は日本語による分かり易い書籍を読んだ次第です。