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「『美学』は『批評』にとって有効か」のまとめ
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の第一部「美学と美術史」のうち「5 『美学』は『批評』にとって有効か」についてまとめます。この単元が第一部の最終単元になるため、今までの振り返りが述べられていて、そこに批評についての論評がありました。「われわれは、『美学』という西欧の学問の体系の移植がきわめて特殊な事情のもとでなされていることを、改めて知らなければならない。それは美学が、西欧のように理論哲学、実践哲学、芸術哲学という哲学の枠組みで理解されたのではなくて、実際に芸術批評に役立つ有効な手段だと捉えられたことである。」その原因として鷗外による論争にあると本書は指摘しています。「鷗外は論争という挑戦的なポーズで人々の注目を引き、その大舞台で『美学』とは何かという問題を一般に知らしめるためのプロパガンダをやってのけたのである。結果として人々は、美学は芸術批評に役立つ学問だと短絡的に思い込まされてしまった。~略~それが外山との論争に続く、坪內逍遙との『没理想論争』にも現れているように思われる。~略~鷗外によれば、この論争は逍遙が『小説神髄』によって写実主義文学理論を提唱して以来、『没理想』論一辺倒であった当時の文学界の状況に対抗して、ハルトマンの『有理想』、つまり観念論の美学理論を拠り所としてこれを批判し、理想主義文学の可能性を擁護しようとしたものだという。~略~外山正一に続いて、文壇の大御所坪內逍遙をも『論争』によって沈黙させた鷗外のハルトマンの美学は世の人々に、あたかも芸術についての批評あるいは論争を挑む場合の最終兵器のごとき印象を与えてしまったに違いない。」英米仏の功利主義あるいは実証主義的な思想が中心だった時代を経て、遅れ馳せながらドイツ観念論が漸く研究されるようになり、その一端を捉えて、芸術が些かジャーナリスティックな面で論争しているように私には感じられました。それでは現在の大学で専攻される美学はどうなっているのでしょうか。「本場の欧州で見聞を広めた大塚(保治)は、美学が批評にとって役立つかどうかを問う以前に、『美学』はまずアカデミズムの圏内で研究されるべき学問としてこれを位置づけたのある。リアルタイムでの芸術の動向に背を向けた形で、その後の『講壇美学』の伝統は形づくられていくこととなる。」これが現代の美学の方向性なのだろうと思います。