Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「高村光太郎と近代彫刻」のまとめ②
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「2 高村光太郎と近代彫刻」を3つの要点にまとめて記述しています。私にとって本単元は最重要な事柄が書かれていて、まさに私が学んできた西欧輸入の彫塑の流れとその在り方が明示されているからです。「フェノロサが日本の伝統的美術を再認識するに至ったのは、明治13年の奈良方面への旅行が契機となっている。そこでフェノロサが目にした、飛鳥天平の古仏がどのような衝撃的な感動を彼にもたらしたかは、人のよく知るところである。だがこの時期、かつての良き伝統は過去の歴史の中にしか求められなかったのであり、仏師たちが継承したものはもはや形骸化した彫技に過ぎない。伝統的木彫科とは言いながら、そこに絵画と同じ対決の構図をそのまま適用することは不可能だったのである。そこで取るべき道はと言えば、(高村)光雲が目指したように洋風彫刻の『逼真』の技術を学び直すことによって伝統的彫技に新しい息吹をもたらすことしか残されていない。すなわち西欧的リアリズムと伝統的彫技との同化、あるいは和洋融合の方向である。~略~(岡倉)天心は伝統的彫刻の世界で写実が時熟するのを待っていたのかも知れない。今ようやく東洋的あるいは日本的題材を、木彫という伝統的技術を自在に駆使して表現することが可能な時節が到来したのだと考えたのかも知れない。」光雲の子息であった光太郎が、ロダンに接したことで彫刻の本性を認識するくだりは、多少長くなりますが、引用いたします。「光太郎は自分と同じくロダンに傾倒した荻原守衛が、これからの日本の彫刻の未来を担うべき作家であったと、その夭折を悼んでいるが、確かに荻原こそはロダンの彫刻が目指したものが何であったかを理解し、それを自らの作品を通じて表現しえた第一人者であったことは、だれもが認めるところであろう。その彼の彫刻観は後に『彫刻真髄』にまとめられてはいるが、そこで語られるところのものは、なお作家としての体験とその反省を越えるものではない。これに対して光太郎は彫刻家をもって自らの天職と認じながらも、彫刻の作家である以上に理論家でありえた人物であろう。~略~光太郎によれば、彫刻の本性は『本能の欲求から発する』ものであり、『確に手でつかめるもの』という原始的な喜びから『確に其処に在る事の不思議な強さ』を感じる精神的高揚に至るまで、すべて皆これは立体感からくる彫刻の特質であり、一切の彫刻はここを中心として集まるのだと語っている。この意味での立体感が欠如した彫刻は、もはや彫刻とは言えない。」今回はここまでにします。