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高村光太郎「彫刻性について」の雑感
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「2 高村光太郎と近代彫刻」について読み終えたところですが、文章の最後に注釈があり、J・G・ヘルダー著「彫塑論」について詳しい情報が掲載されていました。公刊されたのが1778年とあるので、日本では手に入らない書籍だろうと思いますが、そこに高村光太郎の「彫刻性について」から抜粋された文章があり、私はこれに注目してしまいました。そのまま引用いたします。「彫刻性は、もともと抽象的なものであつて、しかも其が自然現象の具象を媒体として表現されるところに彫刻の面白味もあり、又混乱錯誤のもともある。近代前衛派の創るところの『オブジェ』の如きは其の抽象を抽象として取り扱つたものであり、従つて此の彫刻性を具備しないオブジェは唯のがらくたであり、機知の景物となり了るのである。さういふものは永くみてゐるに堪へず、又保存して置く気にもならず、結局物置の中の廃品となるより外ない。彫刻性を有するオブジェは確然とした位置を保ち、明瞭に存在の美を示し、悠久の時間性を空間性に置換する不思議をわれわれに感ぜしめる」といった内容で、旧仮名遣いであっても、大変厳しい言い回しになっていました。高村光太郎の歯に衣着せぬ考え方に私は共感を覚えました。「オブジェ」という言葉が、光太郎の生きた時代に美術用語として使われていることにも私は驚きましたが、オブジェの持つ彫刻性の在り様にも彼の主張の明快さが表れていて、なかなか痛快でした。今や現代アートの概念の広がりに私はついていけないところがあり、美術や彫刻というコトバが意味をなくしているのではないかと危惧しているのですが、私自身は旧態依然とした彫刻という呼び名に拘りを持っています。私は今までオブジェという呼び名は使っていません。自作はあくまで彫刻なのです。J・G・ヘルダー著「彫塑論」の語ったであろうことを、私は300年近く信じて疑わない人なのです。もちろんロダンとは「意識を異にした領域に彫刻を変革しつつある者」に属していますが、私は彫刻性を捨てていないつもりです。