Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「洋楽受容と日本近代」のまとめ①
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「4 洋楽受容と日本近代」を前後半に分けてまとめます。本書はこれが最後の単元になり、音楽に関する事始が述べられています。「東京音楽学校が創立されたのは明治20年のことであり、東京美術学校の開校よりも二年ほど早い。明治19年に伊澤修二外七名が、教育の近代化に強い意欲を示していた時の文部大臣森有孔に音楽学校設立の建議案を上申し、これが採択されて東京音楽学校が創立される有力な動機となった。~略~明治22年に開校された東京美術学校での学科目を見てみると、絵画、彫刻、建築、図案の四科からなるが、建築、図案は発足が遅れ、絵画は日本画のみ、彫刻は木彫のみであり、これに鋳金、彫金、漆芸を含む工芸が半年から一年遅れで加えられている。洋画の併設は、黒田清輝や久米桂一郎ら帰朝後、明治29年になってようやく実現する。これとは逆に東京音楽学校での教育方針は、もっぱら西洋音楽の理論と演奏歌唱技術の修得に向けられていた。これに較べると邦楽教育は少なからず閉却されていた嫌いがある。帝国議会に邦楽教育の請願が提出されて、音楽学校で本格的な邦楽の研究と伝習がなされるようになったのは、時代が大正に移ってからのことである。このように見るならば、発足当時において美術学校では国粋主義、音楽学校では欧化主義という、その教育方針において互いに背馳する奇妙なクロス現象が指摘される。」では当時は西洋音楽がすぐに取り入れられたのか、こんな文章もありました。「かつて西欧諸国のそれに倣って学制が定められたとき、そこに『唱歌』と『奏楽』が教科として文言の上では取り入れられてはいたが、この時期いまだに実施されるに至っていなかった。その原因は、古来の儒教思想では礼楽と呼んで音楽を道徳教育のためのひとつの徳目としてきたにもかかわらず、伝統的に武士中心の教育では芸能方面の教育はとかく軽視され、甚だしい場合は蔑視されてきたという現実があった。」では邦楽はどうだったのか、西洋音楽の視点で見ると雅楽は評価されたようですが、対極にあった俗曲は「わが国の民楽である俗曲は、古来教育ある人たちはこれに見向きもせず、ただ無学な輩の手に委ねられたがゆえに、音楽の本来あるべき姿から逸脱して、もっぱら最低の人事の用に関わり野蛮なものに流れている」と扱われていました。なかなか難しい状況が見て取れます。後半に続きます。