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新聞記事「幸福な素朴さ」について
今日の朝日新聞の「折々のことば」で取り上げられていた記事に目が留まりました。「『無垢の状態というものは立派なものである。しかし他方または大変残念なことに、これは保存されがたく誘惑されやすいのである。 イマヌエル・カント』道徳について人は自身の内に一種の『羅針盤』を持っていて、何が善であり何が悪であるかきちんと心得ている。だから何をなすべきかを知るのに哲学も学問も要らないと、18世紀の哲学者は言う。ただ、そうした『幸福な素朴さ』を損なわないための支えとしては学問も必要だと。『人倫の形而上学の基礎づけ』(野田又夫訳)から。」(鷲田清一著)亡き叔父がカント哲学者だったせいで、カントの言葉に私はふと反応してしまうのですが、人の善悪判断に哲学も学問も必要ないと言っている記事です。私はカントをきちんと読み込んだことがないのですが、現在ではあたりまえになった価値基準を、それがあたりまえなのは何故か、その理由をカントは学問として考察していることは私でも知っています。自然で素朴な判断に対して、それは間違っていないと念を押してもらうのが学問なのです。人と考えを共有できたり、共感できたりするのはカントたち哲学者が、その基準を作ってくれたおかげではないかと思っています。ただし、善悪判断の価値基準はグラデーションがあって、曖昧なところが多々あります。人と人、または国家間で諍いが生じるのはそのためで、自らの主張と妥協の辻褄を合わせるために議論を繰り返していくのです。学問の有用性は判断の裏づけをするだけではなく、これを自分ならどう考えるか、他者が考えていることをどう受け入れていくか、を他者と議論を交えることで自身の納得を得ていくことだと私は考えます。日本の教育事情が戦後の詰め込み教育から、自分自身に主体性をおいた教育に変わりつつあるのも、学問の有用性を考えたことに尽きます。私が校長職にあった時に、学習指導要領を変えていこうという動きがあり、私も図工美術科において微力ながら思索をさせていただきました。「幸福な素朴さ」を損なわずに、学力を身につけるにはどうしたら良いのか、簡単に答は見つからないことは承知で、その方針を指し示すことは重要なことだと考えます。