Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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週末 家内の叔母の法事
今日は工房には行けず、家内の叔母の法事に出席してきました。叔母は8月のNOTE(ブログ)にある通り、8月1日にキリスト教の教会で告別式を終えています。その時、火葬場で分骨を行い、もうひとつの小さな骨壺は今まで教会に預けていました。今日は教会の召天者記念礼拝があって、再び親戚一同が集められ、一般礼拝者と共に式に参加してきました。その後、教会が持つ墓地に出かけ、そこに小さな骨壺を埋葬してきました。教会の墓地は地下に三段になった安置場所があり、人が一人入れるくらいの大きさがありました。墓地の前でも礼拝を行いました。せっかく久々に親戚が集まったので、夕食は皆で会食になりました。新型コロナウイルスの影響で、私には会食の機会が数年間なかったので、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。キリスト教の全ての教会がこうした機会を設けているとは思えませんが、懐かしい人たちと会話が弾み、一日があっという間に過ぎていきました。家内の親戚はキリスト教信者がいて、さまざまな教会で告別する機会がある度、私には去来する思いがあります。キリスト教は元来日本に宣教師によって渡来した宗教で、聖書は現代日本語に訳され、私たちには分かり易い言葉で語られます。キリスト教の説話は仏教のそれとは違い、内容や意味をしっかり把握することが出来るのです。私の菩提寺が信仰対象にしている浄土宗に比べると、その違いがはっきりしていますが、キリスト教が自分の成育歴になかったせいか、内容や意味が分かっても、何故か居心地の定まらない感覚を持ってしまいます。20代の頃、私は西欧に暮らしていて、教会建築を見て歩きました。その時、教会内部の威圧感や宗教絵画による神話に違和感を感じていました。異文化の違いなのか、自分のキャパが狭いのか、理屈では説明ができない要素です。私は人は誰でも信仰は持っていると思っています。人間は心が弱いので何かに縋りたい気持ちになり、そこに宗教が生まれたのだと思っています。だからキリスト教以前にも原始宗教は存在していました。そんな信仰心はさまざまな宗教になって現れてきて、それが原因となって人と人が争うこともありました。私は先祖が拝んだ仏教のこともよく分からず、正直言えば無宗教論者のような存在なのだろうと、今日の召天者記念礼拝に参加して感じていました。