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映画「宮松と山下」雑感
今週は映画館によく行っています。今日の午後は家内と横浜駅に隣接するエンターティメント系の映画館に「宮松と山下」を観に行きました。今日封切りでしたが、この映画は上映されるかどうか危ぶまれていた映画で、主役の俳優が最近になって性加害事件を起こしていたので、それが人気を左右する要因になるのではないかと心配でした。ただ、私は香川照之さんの演技は天性を感じさせるものがあり、その力を遺憾なく発揮したのが映画「宮松と山下」と思っています。この映画の監督は3人がチームとなっていて、3人の対談の中でこんな話がありました。「エキストラを主人公とするならば、端役として映像の中に潜むことが出来る一方で、主人公として物語をぐいぐいと引っ張っていく存在感も必要になってくる。矛盾するこの二面性を持ち合わせている役者はなかなかいない。」そこで白羽の矢が立ったのが香川さんでした。「来る日も来る日も斬られ、撃たれ、射られ、時に笑い、そして画面の端に消えていく。」今まで彼が演じてきた大袈裟な目立つ役とは違い、この映画で求められたのは、あくまでも抑えた立ち振る舞いで、慎ましく静かな日常を送ること。彼は記憶喪失で過去がなく、また未来も見えない中で、その宙ぶらりんな自己存在の隠喩として、端役の他にロープウエイの管理人として働いているのでした。私たち観客も謎に包まれた彼の素性がわからず、どこまでが現実で、どこからが演技なのか攪乱してしまうような演出もありました。端役の演技が終わってもホッとする表情もなく、記憶のない彼はその日を坦々と過ごしているのでした。やがて嘗ての同僚が現れたことで、彼がタクシー運転手だったことが判明し、また歳の離れた妹がいることもわかりました。そこから彼の過去が徐々に説き明かされていくのですが、彼の表情に現れた微々たる痙攣に、私はこれは演技なのか、偶然なのか、彼の風貌の微かな動きをずっと注視していました。ただ、彼の他にも実力派俳優が揃い、大きなドラマのない日常が深く掘り下げられて、映画ならではのじっくり現実と向き合う時間が流れていました。それでも退屈しなかったのは、俳優それぞれの演技に対する解釈と経験の蓄積があったればこそではないかと感じました。