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歌舞伎の理解について
幾度となく生前の母に連れられて、私は東京の歌舞伎座で歌舞伎を観ていますが、お世辞にも熱心な観客とは言えず、歌舞伎と言う日本の伝統芸能に何気なく定番を見ていて、その美しさを堪能することがあっても、歌舞伎とは何なのかを問うことは今までしてきませんでした。それは薪能にしても狂言にしても同じで、きっと掘り下げれば面白い経緯もあるのだろうなぁと思っています。若い頃から私は演劇表現が結構好きで、学生時代は当時流行したアンダーグランド演劇に頻繁に通っていました。ウイーンに滞在していた頃は、専らオペラに行っていて立見席で観覧をしていました。劇場に私は何か惹かれるものがあって、その限定された空間に不思議な魅力を感じていることは確かです。現在読んでいる「死と生の遊び」(酒井健著 魁星出版)に、主体となる単元とは別に歌舞伎に関する記事があり、大いに興味を持ちました。長くなりますが、引用させていただきます。「歌舞伎について言うと、その精神的原点は徳川幕府成立以前の戦乱の世の気分、『夢の浮世じゃ、ただ狂え』といった狂乱に開かれた民衆心理にあった。もっと正確に言えば、歌舞伎の誕生は、この狂乱が眼前から徐々に消えてゆくのに応じて、つまり徳川幕府が正式にスタートし(1603年)、全国規模で支配秩序を整えてゆくのに応じて、民衆の間で高まってきた狂乱再興熱にもとづく。まず現れたのは”かぶき者”と呼ばれる常軌を逸した生き方、態度、服装をする男たちである(”かぶき”とは、傾く、常道からはずれるを意味する動詞”かぶく”の派生語)。出雲大社の巫女と称し京都で念仏踊を妖艶に演じていた出雲のお国は、1603年徳川幕府が成立したその年に、遊郭の前身たる茶屋の女(狂言師が扮した)へ通うかぶき者の様子を男装で、しかし官能的に舞ってみせたのだった。お国のこの倒錯的で艶めかしい舞いは”かぶきおどり”と呼ばれて好評を博し、四条河原、北野神社など京都の目抜きの場所で次々に演じられていった。ここにエロティシズムと融合するかたちで歌舞伎が誕生したわけだが、やがて売春を伴った遊女歌舞伎に発展し大きな流行をみせたため、徳川幕府はこれを風俗紊乱のかどで禁止した。遊女に代わって美少年を官能的に舞わせた若衆歌舞伎も男色を助長したため、禁じられた。最終的に認可されたのは、現在まで伝わる野郎歌舞伎である。ただし注目すべきは、今日の歌舞伎もそうだが、1670年代江戸において歌舞伎は、恐ろしい御霊神の気配を体現する激しい演技様式”荒事”(見得もその一つ)を導入した結果、静と動、静寂と騒擾、善と悪の尋常ならざる強いコントラストを生みだせるようになったということである。」歌舞伎の歴史を端的に記した文章で、私はかなり刺激を受けました。芸能の発生には人間臭さが付き纏っていて、興味が尽きません。