Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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シュルレアリスム宣言に向けて
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「シュルレアリスム宣言」部分の最後の個所に差し掛かりました。「シュルレアリスム言語の諸形態がいちばんよく適合するのは、やはり対話である。そこでは二つの思考がぶつかりあい、一方が心をうちあけているあいだ、他方はそれにかかずらわる。だが、どんなふうにかかずらわるのか?相手の思考を自分に合体させるのだと仮定することは、しばらくのあいだその相手の思考によって完全に生きることが可能だと認めることになろうが、そんなことはおよそありえない。~略~私がこの研究をささげている詩的シュルレアリスムは、こんにちまでのところ、ふたりの対話者を礼儀のおしつけあいから解放することによって、対話をその絶対的真理のうちに建てなおそうと専念してきた。対話者のひとりひとりは、ただひたすら独り言をつづけるばかりで、そこからなにか弁証法的な愉しみをくみとったり、多少なりとも隣人を感服させたりすることをもとめはしない。」著者が考えるシュルレアリスムのイメージとはどんなものでしょうか。「シュルレアリスム的なイメージについては、あの阿片によるイメージとおなじようなことがいえる。つまり、もはや人間のほうからよびおこされるものではなく、『自然発生的に、うむをいわさず人間にさしだされたものである。人間はこれを追いはらうことができない。なぜなら、意志はもはや力をもたず、もはや諸機能を支配してはいないからである。』あとはそのようなイメージをかつて『よびおこした』ことがあるかどうか、それを知りさえすればよい。」文章の最後にこんなことが書かれていました。「私が思いえがいているシュルレアリスムは、私たちの絶対的な非順応主義をじゅうぶん明らかにしているので、現実世界をめぐる訴訟にあたって、弁護側の証人として召喚されることなど問題にもならないほどである。それどころか、シュルレアリスムが弁護することのできるものといえば、私たちがこの世でなんとか行きつこうとしている完全な放心の状態だけだろう。」