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「溶ける魚」11~15について
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の11から15までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元11です。「この広場に面する窓また窓は、牛の眼とよばれるその丸いかたちからしても、また、服をぬいだままたえず気体化をくりかえす女たちのありさまからしても、輪切りにされたレモンに似ている。そんな女たちのひとりは、目にもあらわな下半身の貝殻たちの上にかがみこんでいる。」単元12に移ります。「すこぶる才能のあるその少年は、T教授ののぞみどおりのすばらしい証明役をはたしていたが、そのため抽象の意志ならぬ抽象のあらゆる可能性をうばわれてしまい、もっとも基本的な欲望すらも感じることができなくなっていた。」単元13に移ります。「いまも目をとじれば、長い行列をつくるひとびとのすがたが見える。娘は階段の五段目に腰をおろし、かたくなな権勢家たちにむかって、ここにあらわれてほしい、土地の野生の根っこたちにあたしを従わせてほしい、と懇願した。」単元14に移ります。「私の墓は、墓地が閉門されたあと、海をつきすすむ一隻の舟のかたちになる。ときおり夜のブラインドを通して、両手を上にあげたひとりの女が、空をゆく私の夢の船首像かなにかのようにあらわれるのをのぞけば、この船のなかにはだれもいない。」単元15に移ります。「カトリック式の暇つぶしは見すてられている。いつか鐘楼がトウモロコシの粒にもどれば、工場さえもおしまいになり、海の底はもはやかぎられた条件のもとでしか輝かないだろう。子どもたちはそのとき海のガラスを割り、城に近づくための標語を手に入れる。彼らは夜の見まわりの順番をやりすごし、すてるにはおよばないだろう記号を指でかぞえる。」私が気を留める詩文はイメージを掘り下げやすく、視覚的な要素があるように感じています。