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「溶ける魚」16~20について
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)の「溶ける魚」の16から20までの単元の中で、気に留めた詩文をピックアップいたします。まず単元16です。「私の眼は、手の内側にうけとめてみたいあの雨の滴ほどに表現力ゆたかではない。私の思考の内側には星々をおしながす雨がふり、それはまるで盲人たちに殺しあいをさせるだろう黄金をはこぶ澄んだ河のようだ。雨と私とのあいだにはめくるめくような契約がむすばれていて、この契約の思い出として陽の照りつけるなかでもときどき雨がふる。」単元17に移ります。「あるすばらしい九月の午後、ふたりの男がとある公園で打ちとけ話をしていたが、話題はもちろん愛のことで、なぜなら時は九月、あの微粒子の日々のひとつが暮れるころだったからで、そんな日々は小さな宝石を女たちにわけあたえるものだが、それらはとても小さかったために、女中たちはそのあくる日、いつもとりわけ私の心にひびく音色をたててきた楽器のひとつ、つまりブラシとよばれるものを使ってそれらをこそげとり、窓からほうりだすというひどいあやまちをおかしてしまうのだ。」単元18に移ります。「世界の夜啼鶯としてのパリの風景は、刻一刻と変化をとげ、その美容師たちの蝋人形のむれにまじって、地平線の上の魂の傾きにも似たきれいな春の木々がうずいているのだった。そのとき、エティエンヌーマルセル通りにさしかかっていた街灯は、そろそろ立ちどまるころあいだと思った。」単元19に移ります。「泉、彼女こそは、私をはなれ、あそこで、わずかな通気にも流される私のかわりやすい考えの上で、夜あかしをする木の葉の渦のなかに移りゆくすべてのものだ、彼女はたえず斧におそいかかられている樹だ、彼女は太陽のなかで血を流す、彼女は私の言葉の鏡なのだ。」単元20に移ります。「鏡は見たこともないほど深く、信じられないほど遠く、それ自身のすがたをうつしていた。町々はそのふたつの厚みのあいだにあらわれる余地しかなかった。女たちだけが四方八方に行きかう熱の町々、生きた彫像たちが建造物をよじのぼり、荷揚げ装置が人間に似せてつくられているほったらかしの、しかも天才の町々、みすぼらしい嵐の町々、なかでもこの町は、ひときわ美しく、ひときわはかなく、宮殿のすべて、工場のすべてが花々をかたどっており、たとえばすみれは船をつなぐ場所になっていた。」今回は以上です。詩文はイメージだということを改めて思います。