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「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」読後感
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著 巖谷國士訳 岩波書店)を読み終えました。読み終えてみたものの本書は理解に苦しむ内容が多く、とりわけ自動記述によって書かれた「溶ける魚」には不条理な語彙の使い方や破天荒な文脈に戸惑うことが多かったと思い返しています。自動記述とは思いついたことを自由に紙に書き連ねいていく表現行為で、それは自己イメージの吐露ではあるけれども、シュルレアリスムの概念に則ったものと理解しました。たとえば「シュルレアリスム宣言」と称された文章についても、書かれている内容が論理的な書籍によくある既知の安定感とはほど遠い宙づり状態であることを感じました。訳者による解説によると「いまも生き、鼓動しつづけているものに特有の、めざましい臨場感」とあり、本書が充足されていない流動的なものであることが解りました。宣言は最初「溶ける魚」の序文として書かれたものらしく、解説の中にこんな文章を見つけました。「(シュルレアリスムは)もともとギョーム・アポリネールの造語であって、ブルトンらは言葉自体を借用していたものの、意味内容についてはまったく新しいべつのものをあたえており、すでに二年ほどまえから、それをあるていど流通させてきたという自負があった。ところがこのころになって、イヴァン・ゴルやポール・デルメのようなモダニズム系の詩人たちが別個にこの言葉を用い、ブルトンらを批判しながら、アポリネールのレヴェルにもどる主張をとなえはじめたのである。したがってブルトンはこの『序文』を草しながら、いわば〈シュルレアリスム〉を奪回するためのポレミックをくりひろげ、『いまこそきっぱりと、…この言葉を定義しておく』必要を感じはじめた。『定義』なるものをふくむ序文はすでに『序文』ではなく、『宣言』に近づいていたといってよいだろう。」(巖谷國士著)そんなエピソードがあって、シュルレアリスムの創始者はブルトンになっていて、彼の仲間たちによって齎されている世界観が、今もシュルレアリスムとして芸術史に刻まれているのでしょう。それにしても文章を読んでいて、迷いが次から次へと生じたのは久しぶりの感覚でした。攪乱の洪水を浴びて、私の頭の中も溶けていきそうでした。