Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「小さな街Ⅳ」と個人的な思い
東京都美術館で開催されている「エゴン・シーレ展」。シーレと言えば自画像や裸婦像に目がいきがちですが、私が個人的に思いをもっているのは風景画です。私は若い頃、ウイーンに滞在していたにも関わらず、レオポルド美術館に行かなかったので、図版で見ていた「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」の実物を今回の展覧会で初めて見ることが出来ました。この時期になって漸く見られたというのが素直な感想です。私がウィーンにいた20代は、周囲の学生とドイツ語を話さねばならない億劫さもあって、美術アカデミーにはあまり顔を出さず、旧市街をよく散歩して時間を費やしていました。旧市街の地形は日本から来た私にとって大変興味深く、これを上空から眺めたらどんなに楽しいだろうと思っていました。そうした構築性を自分の中に取り入れられないかと考えたのが、「発掘シリーズ」の発想の原点だったように思っています。そんな頃にシーレの「モルダウ河畔のクルマウ」を図版で見ました。さらにこれはまったく個人的な思いに当たりますが、その図版と同時に頭の中で流れていた歌がありました。高校時代に聴いていたフォークソングで、小室等が歌う「橋」という歌でした。「朝が橋をつくる 心ときめくひとときに ゆるやかな流れは 街をへだて始める 小さなころ見なれた 三角屋根の家並が ほんの少しばかり 姿をかえ河岸づたい…」と続く歌です。これが何故「モルダウ河畔のクルマウ」なのか、自分でもよく説明できませんが、私の中では不思議なマッチアップ感があるのです。ただこの歌のメロディには素朴さと同時に毒気があると私には感じられていて、それが「モルダウ河畔のクルマウ」の内的風景とも言うべき構成に合っていたのかもしれないと勝手に思っています。シーレの風景画は「モルダウ河畔のクルマウ」に限らず、たとえば「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」にも不思議な魅力を感じるのは私だけでしょうか。最初の印象として、これは抽象画なのかと思ったほどで、枯れた木の枝が神経質になって周囲に網の目のように張り巡らされている情景は、風景の擬人化とも言えそうです。風景画にもシーレは自画像を投影していたのかもしれません。