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「ボルネオから土田村へ」について
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第七章「ボルネオから土田村へ」の気になった箇所を取り上げます。「久功が見舞いに行った4日後、昭和17年(1942)12月4日、中島敦は入院中の岡田病院で逝去した。6日、自宅で告別式が営まれた。久功は葬儀に参列後、直ちに列車で西へ向かい、神戸から乗船した。~略~下関を経てシンガポール(昭南島)へ至り、その地で正月を迎え、年明けに北ボルネオへ渡った。北ボルネオでは、陸軍専属嘱託のボルネオ調査団の民族班担当として北ボルネオ各地を、船、汽車、車で回って調査した。」ここで久功は身体を壊し、入院を余儀なくされたようで、やがて香港の病院に転院しています。「半年近くの入院の後、3月7日、病院船バイカル丸で香港を発ち、台湾を経て、18日に大阪・天王寺の赤十字病院に移った。1週間後の25日、東京から来た妻・敬子との1年4カ月ぶりの再会であった。~略~ここに2ヶ月入院した後、帰郷療養となり、5月16日の朝、世田谷・豪徳寺へ帰ってきた。早速兄弟、親戚へ電話で挨拶した。」戦時下で久功と妻・敬子は岐阜県へ疎開します。「久功が妻・敬子とともに岐阜県土田村へ疎開したのは、敗戦の前年、昭和19年(1944)9月であった。」夢の田舎暮らしを思い描いていた久功にとって、敗戦を迎えた後の土田村での生活は、現実的には厳しいものとなったようです。「土田村の軍需工場は、平和産業に転じることになった。しかし、会社は規律が乱れ、盗みが横行した。8月21日の日記には、上から下まで、会社の品物を盗み出している、取り締まる立場にある部課長も盗みをしているので、見て見ぬふりをしている。診療所でも、薬局の倉庫から、よい薬はあらかた盗まれた。」そんな状況もあってか、久功は土田村の生活にすっかり嫌気がさしていたようです。今回はここまでにします。