Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事より「完璧なものではなしに」
今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「だから、欠きたいんだよね。完璧なものではなしに 古川三盛」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「庭を一幅の絵のように見せるのが作庭ではなく、庭は『あってないような』ものがいいと庭師は語る。設計図なしに始まる職人らの緻密な作業を間近で観察した美学者・山内朋樹は、庭を作ることでそれまで見えなかった庭の周りや向こうが見えるようになる、そんな庭ができればと、庭師は細部まで詰めずあえて綻びを残したと解す。山内の『庭のかたちが生まれるとき』から。」私は亡父が造園業を営んでいたので、幼いころから庭園に触れることが多く、実家は無造作に庭石が積んであったり、売約済みの植木が何本も仮植えされていたりして、実家の前は庭と呼べるような空間ではなかったものの、庭園を実感することはありました。亡父は職人たちを雇い、公共の公園や個人宅の庭園を数多く手がけていました。庭園は細部を詰めずにあえて綻びを残すと文章にありましたが、確かに公園は人が往来する場所で、そこに癒しを齎せてくれれば、それで充分存在意義があるのだろうと思います。私が20代の頃からやっている彫刻は、ギャラリーなどに展示して、そこに照明を当てて、しっかり鑑賞者に味わっていただくものです。それは細部を詰めていかないと自分では納得できない世界なので、庭園とはかなり違うなぁと思っています。フランスのパリで日本庭園を造っていた彫刻家イサム・ノグチは、日本からやってきた作庭家と空間の見せ方で口論になったと何かで読んだことがありましたが、庭園と彫刻の考え方が大きく異なるのは、亡父の仕事を学生時代に手伝っていた私にはよく理解できます。庭園の「欠きたいんだよね。完璧なものではなしに」というのは、日本人の美意識からくる独特な感性です。茶の湯にしても、芸事にしても、日本人は完璧ではない完成度を求めていて、そこに遊び心と余裕(余白)を感じさせる不思議な魅惑があると思っています。