Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事より「薬師如来立像」の印象
東京国立博物館で開催されている「神護寺―空海と真言密教のはじまり」展。何回となくNOTE(ブログ)で取り上げましたが、ほとんど両界曼荼羅に拘ってしまい、展覧会場で存在感を放っていた「薬師如来立像」についてはあまり誌面を割いていません。今日の朝日新聞夕刊に「薬師如来立像」の記事が掲載されていたので、当の仏像と対面した時の印象が甦りました。「東京国立博物館の丸山士郎研究員は『現代まで伝わる仏像は多くあっても、作り手の意識が強く感じられる像はそう多くはない。この像は、考えて、考えて、作られている』と話す。顔の造形しかり、衣の表現しかり。左袖の側面に見られるような、波のように丸みのあるひだと尖ったひだを交互に刻んだ表現を『翻波式衣文』と呼ぶが、『これほどきれいに翻波式衣文を彫っている像はなかなかない』と丸山さん。」(松本紗知著)作り手の意識は私にも伝わっていました。衣文だけではなく、眼差しや指一本にも仏師の思いが込められていると感じていました。威厳のある顔にどっしりとした存在、それが神護寺が荒廃した平安末期には、雨ざらしになっていたというのは些か驚きでした。私は時折、仏像が見たくなって寺院を訪れますが、寺院の伽藍に収まった仏像と博物館で見る仏像は印象が大きく変わります。寺院に安置された仏像は周囲の雰囲気も相まって、信仰の対象となり、思わず合掌したくなるのです。この御顔を見つめていると自分の願いが届くのかと思うのは信心の第一歩かもしれません。それに比べて博物館で見る仏像は鑑賞の対象で、全体のバランスを見て、細部の造形を味わうのです。私は同じ仏像を寺院と博物館双方で見るようにしていて、仏像を信仰と鑑賞の両面から味わうことにしています。先日見てきた「薬師如来立像」は場所が博物館だったこともあり、仏像との距離も近く、また仏像の背中も見ることができ、さらに計算された照明の演出もあり、立派な彫刻作品として鑑賞してきました。記事にあった「この像は、考えて、考えて、作られている」というのも納得の印象でした。