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信仰とはなにか?叔父の告別に捧ぐ
齢80歳で叔父量義治が逝去しました。今日は告別式でした。叔父は東大でカント哲学を専攻し、定年まで大学の教壇に立っていました。多くを語らなかった叔父ですが、自分の個展には度々来て示唆に富むコトバをかけて頂きました。前夜式や告別式を通じて周囲の親戚が知らなかった本当の叔父の姿が浮き彫りになりました。叔父は学問の前に信仰ありきの人だったようです。10代でキリスト教に心酔し、一度は牧師を目指したことがあったけれど、周囲の説得で大学に行くことにしたこと、無教会主義をもって聖書の解釈に努め、信仰に裏付けられた論理を展開し、その厳しさは世俗的な私たちには到底理解が及ばなかったこと等が俄かに見えてきました。告別式で代表牧師が叔父の小さな論説を読み上げました。「愚か」と題されたもので、雑駁な紹介をすれば「どんなに信仰しても成就したためしがない、歴史的に見ても信仰は愚かとしか言いようがない、しかしどんなに愚かであっても信仰し続けること、神の存在を信じることだ」といったような内容でした。叔父に師事した若い学生の弔辞では、「信仰に逃げてはいけない、信仰も世俗的な仕事も命がけで行いなさい」と言われたことを独白するように語っていました。叔父にとって信仰とは何だったのでしょうか。いや、人にとって信仰とは何でしょうか。今となっては叶わない願いですが、自分も思索に支えられた人生を叔父に問いかけてみたいと感じました。叔父は結論だけをきっぱり言う人で、自分の作品に対しても「これでいい。これでいきなさい。」と言っていたのが印象に残っています。自分は今後ともその一言だけを頼りに創作を展開し続けていくつもりです。