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「意志と表象としての世界」第三巻の読後感
「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第三巻を読み終えました。自分が第三巻で注目し、共感したのは具体的な芸術に関わる部分です。第一巻は「表象」、第二巻は「意志」に関する論理を扱い、第三巻はそれを踏まえた「芸術の各分野」についての考察が述べられていました。建築、絵画、彫刻、詩文芸、最後は音楽でまとめ上げられた壮大な論考に、自分が印象付けられた箇所はかなりありましたが、締め括りに相応しい一文を探しました。「表象としての世界の全体が、もしも意志の可視性にすぎないのだとしたら、芸術はその可視性をいっそう鮮明にする仕事なのである。芸術は人生のとりどりの対象をいっそう純粋に示し、よりよく達観させ、よりよく要約させるところの暗箱だといってよいのである。~略~いっさいの美しいものの享受、芸術のさずける慰め、そして芸術家が人生の労苦を忘れてしまうほどの熱中ぶり、天才が他の人々より勝れているというこの一点こそ、芸術上の天才に、次のような報いを与えずにはおかない。すなわち天才の意識は明晰になるにつれてそれと同じ程度に苦悩が高まるということ、そして異質な人種に立ち交わって荒涼たる孤独感を味わわされるというあの報いを。」暗箱とはカメラの原型になったもので、16世紀以降多くの画家が用いたものです。時代は移って21世紀になった現在も、芸術家の役割や苦悩は大筋のところで変わることがありません。ここにきて「意志と表象としての世界」が漸く意図してきた全貌が見え隠れしています。「ミットライト・ペシミズム」とは何かが最終巻で述べられようとしているのです。やっと辿り着いたショーペンハウワーの現代まで継承された哲学的評価、その意味をこれから探っていこうと思います。