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昭和41年の「千円札裁判」
遅読というより、もう滞読と言ってもいいくらいの読書習慣になってしまった私ですが、「オブジェを持った無産者」(赤瀬川原平著 河出書房新社)を読んでいて、漸く著者が本書の主題にしていた「千円札裁判」の意見陳述に辿り着きました。裁判所に提出した本人記述の記録文書が、ここに全て掲載されていました。それは昭和41年8月10日の一審から昭和42年5月16日、昭和44年1月29日の上告趣意書に至る文書が、おそらく原文のままで読むことが出来るようになっています。著者である故赤瀬川原平氏が被告人となった事件「千円札裁判」は、通貨及証券模造取締法違反として裁判にかけられたもので、千円札の巨大な模型を作ったことで、当時は社会的に物議を醸し出したようです。巨大な模型は絵画の範疇に入る現代美術であると被告人は主張し、法や権力に対して果敢に芸術論を展開していた模様で、今でもこの文書に対して私は興味関心を持っています。紙幣に似せている作品は、偽札とは言わないまでも社会に混乱を齎すというのが法廷の論理ですが、被害者のいない事件は果たして犯罪となりうるのか、被告人が自問自答している箇所は、ブラックユーモアのように思えてなりません。文中から引用すると「私は芸術と科学とは、それを行う者の衝動或は欲求に於て非常に共通したものを見るのですが、決定的に違う事は、科学というものが矛盾の解決に向うのに対して、芸術は矛盾というものがあっても必ずしもそれの解決に向うものではないという事です。それでは法律、あるいは裁判とはどういうものでしょうか。芸術は常に矛盾を残し、解決を残していくあいまいなものであり、決定的な判断を下すものではないが、法律というものは、例えば『紙幣に紛らわしき外観を有するもの』という様なあいまいなことばに基いて、決定的な判断を下そうとするのであります。」といった具合で、芸術とは何かを説明する場面が多々あります。記録文書に面白みを感じるのは、これは日常生活の中で慣れ親しんだ事例や事物に対し、その価値を疑問視また刺激する現代芸術の考え方を説いているところがあって、デュシャンの便器(レディメイドによるオブジェ)を引き合いに出しながら、現在では当たり前になった考えをいち早く標榜しているのです。こんな一文もありました。「あるいは失礼ないい方かもしれませんが、この法廷のありのままをのべますと、検察庁の方々は職業としての報酬を受けながら現代芸術の講義を聞き、いわばわれわれ講師陣は手弁当で、身銭をきって講義を行なければならなかったのであります。」やれやれ、日本のシュルレアリスムは刺激的な出航をしましたが、これが欧米ならば後世の美術史に残る大変な事件になっていたのではないでしょうか。