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「抽象」の意味するもの
職場の休憩時間に読んでいる「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の中で、「『抽象絵画』という表現において『抽象』の意味するもの」という章があります。抽象的と言われる所以は、帰属している実在性から切り離されていることですが、抽象絵画においては、目に見えている世界を一種の純化によって、幾何学的な基準へ移行することと本書では述べています。さらに本書の一文に頼れば「(絵画の)革新の試みの前提として役立っているのは、相変わらず外部の実在性であり、その実在性の何らかの解釈である。キュビズムの抽象化は具象的な企てに帰属しており、その企ての実現の一様態として理解されるべきである。」となります。それに比べてカンディンスキーが唱える抽象は、おのれ自身へのたゆみない到達の渦中にある目に見えない生のことです。それを文中から引用すると「『抽象』は、もはやここでは単純化や複雑さの過程の果てに、現代絵画の歴史をなすような歴史の果てにこの世界から生ずるものを表すのではなくーこの世界の手前にあって、存在するためにこの世界を必要としない〈それ〉を、つまり光も世界もない、自己の徹底的な主観性という夜の中に包み込まれている生を表すのである。」と書かれています。そうであれば、カンディンスキーにとって絵画の出発点は何でしょうか。「それは感動すなわち生のより激しい形態ということである。芸術の内容とはそうした感動である。芸術の目的とは他者にその感動を伝えることである。芸術の認識はすべて生の中で発展する。それは生自体の運動、増大する、より激しくおのれを感受する運動である。」カンディンスキーの有名な著作に「芸術における精神的なもの」があります。その中にも抽象の意味するものを伝える主旨があり、本書ではこんなふうに扱っています。「自然主義に抗して、芸術の固有の次元が『精神的なもの』すなわち目に見えない生ー芸術は目に見えない生の自己拡大のプロセスと同調し、絶えずつき動かし刺激することによって、その生と一体化するーであることをあきらかにしなければならない。」