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小泉八雲記念館・旧居にて
先週、島根県松江に旅行した際に、小泉八雲記念館・旧居を訪ねました。小泉八雲はパトリック・ラフカディオ・ハーンとして1850年にギリシャの島で生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人でした。当時のアイルランドは独立前だったので、ハーンはイギリス国籍を有していました。16歳の時、遊戯中に左目を失明、ハーンの写真が右から撮影されたものが多いのはこんな理由があるとは、私は知りませんでした。単身アメリカに渡り、ジャーナリストとして認められたハーンは、カリブ海のマルティニーク島で多様な民俗文化に接し、やがて「古事記」を通して日本文化に辿り着き、1890年に日本の土を踏みました。アメリカの新聞社を辞め、島根県尋常中学校英語教師となり、そこで知り合った士族の娘、小泉セツと結婚、日本に帰化したのでした。これが新聞記者ラフカディオ・ハーンから作家小泉八雲になった経緯です。ハーンはセツが話して聞かせる伝承文学に惹かれ、「怪談」をまとめあげました。「ヘルン氏(ハーン氏)は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。」(西田幾太郎)と言われる通り、「怪談」は日本の伝承文学として不動のものとなっています。私は中学生の時に「怪談」を読みました。これは英語で書かれたものだったので、英語を学ぶ第一歩として原語読破を試みる友人がいましたが、私は敢えて苦労はせず、日本語のものを読みました。その中の「耳なし芳一」の話は、夢に出てきて魘されてしまったことを思い出します。小林正樹監督による映画「怪談」も観ましたが、映像より自分のイメージの方が強く、今も当時の文章より紡ぎだしたイメージを思い起こすことが出来ます。さすがに私の書棚には中学校時代の書籍はなく、小泉八雲記念館で「怪談」を含めた数冊の書籍を購入しました。50年を経て再読する小泉八雲ワールド。旧居では坪庭で蛙が鳴いていて、不思議と心が癒されました。そこにあった机が妙に背が高かったのは、目が悪かった小泉八雲が原稿用紙に顔を近づけて執筆したことによるもので、作家の癖が分かって親近感を持ちました。