2020.01.17
昨日、NOTE(ブログ)に書いた非存在という考え方に通じるものがありますが、その概念の中にある「あるものの欠如」という意味は、自分が陶彫による集合彫刻を作り始めた動機に重なります。学問上で矛盾が指摘された非存在の概念において、自分の作品がその具現化とは到底言えませんが、20代の頃に地中海沿岸の西欧文明発祥の遺跡群を見てきた私は、そこで歴史を経て崩壊の進んだ都市空間を感じ取り、「あるものの欠如」を見取りました。本来はこんな姿であっただろう都市が、無残にも土台や柱の一部が現存されており、それでも想像で補う巨大な都市空間を私は肌身で感じていました。時に欠如は大きな空間の獲得があるのではないか、寧ろ完成された景観は、芸術的に退屈を伴うことがあるのではないかとさえ思うほど、崩壊の姿が美しく映ることもありました。実際に都市を建設した人々やそこで暮らした人々にとっては不本意な状態になってしまった我が街が、他者に奇妙な美的感覚で語られることは虚しいことだろうと思いつつ、それでも後世の人にとっては保存の対象にしたいほど美しいものであることは間違いありません。そうした一部を見せて全体を想像させる提示方法を、私は自作に応用してきました。昨日も書きましたが、私が拘っているのは最小の物体で最大の空間を得るというものです。想像での補填によって作品を完成させる意図が私にはあって、欠如を思わせる造形を敢えてやっているのです。陶彫による古びた土の肌触りは出土品を髣髴とさせる効果があります。全てを語らない形態には、部分にこそ魂が宿るという自分の過去に感じた景観の印象が、今も頭の片隅にあるのです。私が求める最小の物体で最大の空間を得るというものは、まだ展開の途上にあって、今後はさらに物体を削っていく所存です。