Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「生涯と作品」について
「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」(アンリ・フォション著 原章二訳 白水社)の「第2章 生涯と作品」についてのまとめを行いますが、ここでは主に生涯についての記述に留めたいと思います。ピエロの代表作品「聖十字架伝説」については別稿を起こします。ただし、ピエロは生涯に関するエピソードが少なく、生誕から逝去まで把握している範囲の考察になっています。「ピエロ・デッラ・フランチェスカは1410年から20年のあいだに、ボルゴ・サン・セポルクロに生まれた。~略~ピエロの父ベネデットは靴作りの職人であった。母はフランチェスカといい、ピエロはその名をもらってピエロ・デッラ・フランチェスカ、つまり『フランチェスカのピエロ』と呼ばれた。」ピエロに絵の手ほどきをしたのはシエナ派の画家とも考えられ、本書では当時の画法を調べて、さまざな洞察をしています。生誕の地にある修道院聖堂に描かれた「キリスト洗礼」はピエロ初期の板絵とされていて、既に特徴が現れているようです。「ピエロの描いている三人の天使の体は、生命がなかば抜け出したかのように、微妙このうえない光を浴びて透明と化しているのだ。画面構成の腕の冴えが早くもここに窺われる。~略~不動の天の下に凝縮したその画面は同時に、じつはゆったりした鷹揚な感じをあたえる。そこには一種独特な痺れが静かに漲っており、すでにピエロ独特の詩的才能が開花しているのである。」さらに「ピエロはリミニ滞在で『聖シジスモンドとシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ』を残したのみで、1451年ふたたび旅に出る。~略~こののちすぐピエロはアレッツォにおもむいた。アレッツォではビッチ・ディ・ロレンツォが、サン・フランチェスコ聖堂内陣の装飾を仕上げないままに病没していた。」それがピエロの代表作になる「聖十字架伝説」制作の契機になるのですが、それは別稿で書いていきます。「ピエロは故郷を忘れる人間ではなかった。しかし同時に、どこへでも気軽に出かけた画家であることを忘れてはならない。内面の要求にしたがって織りあげられたピエロの一生は、他人にうかがい知れないものであると同時に、時代の生命と密接に関わっていた。しかも興味深いのは、ピエロが自分に必要な環境を自分でつくり出したということである。」ピエロは2冊の著作をまとめています。それが「透視図法論」と「五つの正多面体小論」です。ピエロは1492年10月12日にこの世を去りましたが、最晩年の5年間は失明していて、少年に手を引かれて街路を歩いていたことを目撃されています。