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「名も無き者は」のまとめ②
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「五章 名も無き者は」の後半部分をまとめます。後半はニコライ堂の落成から日露戦争開戦までが描かれていて、聖像画家山下りんにとって周囲に気遣う日々だったのではないかと思います。「成堂落成した東京復活大聖堂はたちまち朝野の注目を集め、今日まで男性でおよそ千人、女性で二千人もの参拝があった。とくに今年は五月三日が復活大祭であったので、信徒の参祷も多かった。そこで祈祷時間以外でも当番を置き、便宜を図ることになった。実際には用心のためでもある。」そんな折、事件が勃発しました。「ニコライ皇太子とゲオルギオス親王は京都に滞在し、琵琶湖遊覧の日帰り観光に出かけた。日本政府の接待によるもので、有栖川宮威仁親王も同行していた。その道中、事もあろうに警護の者がサーベルで斬りつけたという。皇太子はこめかみを負傷した。一行はすぐさま京都の宿所である常盤ホテルまで引き返したらしい。皇太子が乗ってきた軍艦を含む七隻は、神戸港に投錨している。~略~主教の指図で、教会と信徒が用意していた奉呈品のすべてが司祭らによって神戸港へと運ばれた。蒔絵を施した聖像画の二点、『ハリストスの復活』と『至聖生神女進堂』も、軍艦の上で奉呈された。」りんの描いた聖像画はこうした運命を辿ったのでした。「しかし今は、『ロシアごとき、なにするものぞ』との風潮に変わってきている。契機は清国遼東半島に位置する旅順であるらしい。ロシアは太平洋への出口として、獅子口という古称を持つこの港を租借、極東に進出してきた。朝鮮を領土としたいのだ。だが日本はすでに朝鮮で多くの利権を持っている。大陸進出の足がかりとしても重要な拠点で、奪われるわけにはいかない。そこで着々と軍備を増強し、ロシアに対する敵意を高めている。」そこに兄重房が息子重幸に言っている会話をりんは聞いてしまいます。「『簡単なことじゃねえぞ。戦場に出るってことは』兄は戊辰戦争や西南の役を経験している。しかしりんや母には血腥い話をしたことがない。おそらく、妻や我が子に対しても同じであっただろう。それは兄の性の明るさゆえだと思ってきたが、ひょっとしたらそうではなかったのかもしれない。戦場ではきっと、生涯口にしたくない経験をするのだろう。」それでも重幸は軍人になったのでした。「甥がロシアとの戦で死んだとは、女教師らにも話せないでいる。皆、世間の敵意から生徒たちを守るので精一杯だ。あれほど東京の人々の憧憬を受けたニコライ堂は『敵国ロシア』の巣窟として憎悪され、信徒らは露探と白眼視されている。」りんは肩身の狭い思いをしていました。「三月三十日、兄、山下重房は息を引き取った。享年五十三だ。葬儀の後、りんは駿河台に帰っても絵筆を持たなかった。兄が坐した窓辺の椅子に何日も坐り続けた。しゃあんめえと苦笑しながら、『前へ進めよ』と背中を押してくれた人はもういない。」今回はここまでにします。