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「復活祭」のまとめ
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「終章 復活祭」をまとめます。聖像画家山下りんの生涯を描いた小説は、りんの隠居生活で最後を迎えます。とつおいつ読んできた本書は、りんの郷里での平穏な生活を淡々と描いています。「大正七年、りんは六十二歳で生まれ故郷の笠間に帰った。今は七十四であるので、郷里での暮らしも十数年になる。しばらくは駅前の家で間借りをしたり、田町の長屋などに住んだ。やがて弟の峯次郎が五騎町の家の敷地内、南手に隠居家を建ててくれたので移り住んだ。五騎町は生まれ育った武家町で、今もその風情がそこかしこに残る。」そんな折に関東大震災がありました。「七年前、大正十二年の九月一日、大震災によって駿河台の大聖堂は瓦礫の山と化した。鐘楼が倒壊して天蓋も破壊されたという。ニコライ大主教が『二百年経っても堅牢なものを』と願って建てた大聖堂は、わずか三十二年で無に帰した。火災によって聖堂内の聖障のみならず聖像画群もすべて焼けた。」日本を襲った悲劇だけでなく、その頃ロシアにも正教受難の時代がやってきたのでした。神父がロシアの情報を持ってりんの許を訪ねてきました。「『市中の大聖堂と修道院はことごとく破壊されていましたから、女子修道院が最後の砦であったのかもしれません。ですが1932年二月、日本の昭和七年です。修道女は全員逮捕され、強制収容所に送られました。病気の者はまとめられて一室に閉じ込められ、次々と天に召されていったそうです。五月、レニングラード州執行委員会幹部会は女子修道院の大聖堂を閉鎖、百貨店に改造することを決めました。深夜に大聖堂の破壊が始まったようです。丸屋根の金張りが剥がされ、鐘楼も爆破されました。聖像画、とくにルネサンスの伊太利画は金満家の物として排斥され、相当数が焼き捨てられたようです。~略~革命前、1914年のロシア帝国には修道士、修道女、見習いも含めれば九万四千人ほどもいたと聞きますから、修道女らがどれほど逮捕され、強制収容所に送られたかは不明です。が、おそらく途方もない人数に上るでしょう。とくに革命が起きてのち、修道女は常に抑圧の対象となりました。ただ、監獄と強制収容所での修道女らは非常に忍耐強く、かつ強靭であったと聞きました。道徳的にも肉体的にも』」りんが過ごしたロシアでの日々、そして迫害される現実に、りんはどんな思いを描いていたでしょうか。笠間での平穏な生活の中で、自らの過去を振り返り、こんな祈りにも似た言葉で本書は終わっています。「『主、憐れめよ。主よ、我を憐れめよ。父よ母よ、兄弟よ、師よ。わたしのこの手が描いた聖像の数々よ。署名のない画たちよ』大聖堂に懸架された聖像画は焼失してしまったけれど、日本の各地の教会で、そして信徒の家の隅でまだ掲げられているはずだ。りんの描いたハリストスや生神女、使途らは祈りを受けとめ、時に語り合い、蝋燭の灯でまた別の表情を見せるだろう。悲しみや迷いや嘆き、呻き、そして歓び。数多の祈りを受けとめ、聖なる仲立ちを果たしているのだとしたら、わたしは満たされる。」日本人初の女流聖像画家は、時代に翻弄されながら精一杯生きたと私は感じました。「死なば死ね。生きなば生きよ。」腰の座った命懸けの人生だったと思いました。