Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

丸の内の「上野リチ展」
東京丸の内にある三菱一号館美術館で開催されている「上野リチ展」に先日行ってきました。上野リチは1893年にフェリーツェ・リックスとしてウィーンに生まれた人で、両親はユダヤ系です。日本人建築家上野伊三郎とウィーンで知り合い、結婚したため、上野リチを名乗るようになりました。彼女はデザイナーですが、芸術界が女性に門戸を開いていなかった時代に、どうして活躍できたのか、図録より文章を拾ってみます。「画家や彫刻家のような芸術家として自立することは、その公的養成機関である造形芸術アカデミーが1920年代まで女性に門戸を閉じていたこともあり、不可能に近かった。一方で、工芸家やデザイナーの養成機関である工芸学校やそれに類する機関は、家内工業的職場でも女性も手仕事に携わっていた現実を背景に、開校時から女性の入学を認めていた。」さらにウィーン工房の存在がリチの個性を際立たせる役目を担っていたのでした。「ウィーン工房において、リチは七宝の宝石箱やアクセサリーにハンドバッグ、エナメル絵付けしたガラス製品などのデザインを手がけているが、多くは平面的な装飾デザインであって、躯体の形そのものをデザインしたものは少ない。なかでも群を抜いて多いのがテキスタイルのデザインで、その数は製品化されたものだけで113種類にのぼる。デザインの多くは花や草を簡潔な線で巧みにパターン化したものだが、幾何学的な抽象文様も手がけており、なにより生き生きした配色の妙に目を奪われる。」リチは夫と共に京都に住み、染織試験場でも仕事をしています。「プリント服地や友禅といった染物だけではなく、織地のデザインも手がけ、その多くは身近な草花をモティーフとしていた。また洋装のための服地小物、とりわけ刺繡のデザインが多いことも特徴のひとつだろう。モティーフが画面全体に隙間なく描かれたり、シンメトリカルに配置されたりしたデザインは、試験場の期待に応えたものなのか、余白を巧みに使っていたウィーン時代のデザインよりも、ヨーロッパ的な印象を与える。」(今までの引用は全て池田祐子著)確かにリチの作品を見ていると、国の文化に左右されないリチ本人の個性が一貫されていて、豊かな色彩に支えられた繊細な線による特徴的なデザイン性を私も感じました。ウィーンの装飾は、19世紀よりジャポニズムの要素を取り入れた融合が見られたことも大きかったのかもしれません。「ウィーンにいた時よりも長い時間を京都で過ごしたにもかかわらず、リチのデザインは、ウィーン時代と比べて日本的な雰囲気に変化したり、日本のモチーフが増えたりといった、中途半端な『日本化』は起こさず、常に安定して垢抜けた、ヨーロッパのデザインであり続けた。」(阿佐美淑子著)私は20代の頃、ウィーンにいて戦前には女性が入れなかった造形芸術アカデミー(アカデミークンスト)に籍を置き、ジャポニズムに影響されたウィーンの近代デザインも目にしてきました。上野リチにとって、当時はウィーンも日本も同じ方向性と様式をもったデザインだったため、自然に個性を発揮できる環境にあったのではないかと思っています。ウィーンの至る処にジャポニズムがあるように私にも思えました。