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渋谷の「ミロ展」
先日、東京渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催している「ミロ展」に行ってきました。本展は「日本を夢見て」という副題がついていて、20世紀の巨匠ジョアン・ミロが日本との関わりにおいて創作を展開した視点をもって全作品を展示している意図がありました。詩人瀧口修造とミロの協働による作品を、私はかなり前から知っていて、羨ましさを感じていました。こうした関係性を図録から読み解いていこうと思います。「『ミロと日本』論は、戦前の日本においてはシュルレアリスムの独自展開への可能性を拓くものとして輸入された。また、戦後の日本においては1952年の日本の主権回復に伴い国際性の確立を希求する姿勢の中で、埴輪の復権や書の可能性の拡張、禅の逆輸入といった、それぞれに固有の文献へと分散しながら受容されてきた。一方のミロは、主に周囲の友人らから散発的に日本の情報を得ながらも、特定の分野に深入りすることはなかった。だとすれば、ミロの日本への視線と日本がミロに向けた視線は、ずっとすれ違い続けてきたのだろうか?おそらくそうではない。活版の紙型から日本の筆、和紙、拓本、木版、民芸品からざらついた陶磁器の肌まで、ミロがいつも追い求めていたのは、日本文化の持つ独特の手触りであった。~略~『百姓がつくった椀、スープ用のさじは、わたしには、美術館のガラスの中にかざられている日本の名陶と同じようにすばらしい』。何気ないガラクタのようなものに触れることで、初めてミロは故郷のカタルーニャと遠く離れた日本とを接続することができるのだ。一見すると、たどたどしく、ぎこちなくもある、その手つきで。」(副田一穂著)また別の論者からの文章も引用いたします。「日本からの帰国後に、ジョアン・ミロ特集が組まれた『デリエール・ル・ミロワール』誌の1967年4-5月号は、当時74歳だったミロが日本の詩学や美学の一部を吸収して、自身の芸術的言語の本質的な部分へと昇華していたことを示す好例と言えよう。同号では、瀧口がミロに捧げた詩『旅程』やリトグラフ、ミロが制作した原始的な形態の陶器や彫刻の図版のほかに、日本の伝統に通じるさまざまな造形要素を見ることができる。なかでも最小限に切り詰められた形態や書のような線がもつ表現性、身振りや偶然による詩情、非対称性、色鮮やかな色斑など、ミロが形態や色彩に関する独自の詩的言語を確立しようと数十年にもわたって用いてきた要素に着目しておきたい。」(リカル・ブル著)展示されていた作品全体を通して、日本文化がスペインの芸術家によってさまざまにアレンジされ、また自らの作品世界に取り入れられている状況を見て、私は外側から眺めている日本文化の不思議さ、素晴らしさに改めて気づかされた感想を持ちました。ところで私もヨーロッパ文化を自作にアレンジしていると言えないでしょうか。