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「ウィーン工房誕生の布石」のまとめ
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第二章 ウィーン工房誕生の布石」をまとめます。この章は3つの内容で成り立っています。まず1900年以前のクンストゲヴェルベシューレ(美術工芸学校)における工芸教育の変遷です。クンストゲヴェルベシューレは芸術産業の需要に適う人材養成のために、度々学校規則や規定、教育計画の見直しを行っていました。2つ目の内容は学校改革と同時に隣接する芸術産業博物館の近代化であって、四代目館長がアルトゥール・フォン・スカラになり、スカラはイギリス工芸を模範に一挙にオーストリア工芸の近代化を推し進めていくのでした。ここでウィーン分離派の画家フェリツィアン・フォン・ミュルバッハが校長となり、建築家オットー・ヴァーグナーによる学校改革による提言を受け入れていくことになったのでした。「1899年以降、ヴァーグナーが意図したようにウィーン分離派の芸術家たちが教授に任命された。この決定に、ヴァーグナーの理事会での提言がどの程度影響したかは実証できないが、アカデミー教授であり、ウィーン都市計画や芸術評議会にも関与しているヴァーグナーの意見は決して軽視されなかったはずである。したがって、まず1870年以降のゆるやかな学校改革の流れがあり、その後、1890年代末のスカラによる博物館の近代化、およびその庇護の根拠となった文化教育省の近代志向の文化政策があり、そこにヴァーグナーによるウィーン分離派任用への提言が刺激として加わったことで、1900年以降のクンストゲヴェルベシューレ改革の素地が形成されたといえる。」3つ目はウィーン分離派による改革の中身を取り上げています。「1900年頃からウィーンのクンストゲヴェルベシューレでは、創造性を重視した総合的な制作活動と基礎的な美術教育を両輪とする、網羅的な工芸教育が行われるようになった。こうした教育は、新たな時代様式の工芸、絵画、彫刻、建築による美的な統一空間を目指した、ウィーン分離派のモデルネの立場からの総合芸術の理念に通底する。また芸術のヒエラルキーの否定、芸術と美術工芸の等価値の主張は、ウィーン分離派の基本精神のひとつであった。ミュルバッハとウィーン分離派の教官による学校改革の成果は、ウィーン分離派の理念を体現する教育体制を整えたことといえるだろう。しかし、ミュルバッハらが重視した工房教育は、学校の場所と資金の不足により実現が遅れ、ウィーン工房に引き継がれることとなった。」今回はここまでにします。