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「設立構想と初期理念」のまとめ①
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第三章 設立構想と初期理念」の前半部分をまとめます。年代で言えば1900年から1906年で、ウィーン工房設立までの出来事が記されています。「クンストゲヴェルベシューレ(美術工芸学校)での工房教育の導入の遅れは、同校の教授であったホフマンとモーザーによるウィーン工房の設立を導いた。この経緯はウィーン工房が純粋な教育機関ではなく、芸術家と工芸家が日用品の生産・販売を行なう企業でもあったことを意味する。」第八回ウィーン分離派展が開催され、その成果として「ホフマンは早い段階から、諸外国作品との比較を通じて、自国の工芸様式の独自性を明示することを計画していた。展覧会はこの計画に沿って構成され、~略~外国での工芸改革の成果が紹介されると同時に、ウィーン独自の新たな幾何学的ユーゲントシュティールが披露された。」とありました。同展では外国のデザイナーとの交流もありました。「アシュビー(チャールズ・R・アシュビー)とマッキントッシュ(チャールズ・R・マッキントッシュ)夫妻は、会期中にウィーンを訪れた。ウィーン工房との関わりにおいて、アシュビーとマッキントッシュとの接触はきわめて重要である。前者は組織形態の面で、後者は造形面で影響を与えた。」次にウィーン工房設立者のことについて書かれていました。「ウィーン工房設立者の一人であるフリッツ・ヴェルンドルファーは、1914年の脱退まで工房の経営資金をほぼ全面的に負担し、ホフマンとモーザーの気前の良いパトロンとみなされることが多い。」ただし、彼は単なるパトロンではなく、イギリスの工芸改革運動思想にも通じていたことが伺えます。「ヴェルンドルファーがマッキントッシュとホフマン、モーザーの仲を取り持ったこと、ならびに、彼らが内密に計画を打ち明けるほど信頼関係を築いていた様子が確認できる。さらに、当初計画していた工房の概要として、金属製品の工房とする予定であったこと、受注製作を予定していたことがわかる。」雑駁なまとめではありますが、このようなウィーン工房設立までの出来事があり、後半部分ではウィーン工房の組織形態に入っていくことになります。