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上野の「空也上人と六波羅蜜寺」展
昨日は上野にある東京国立博物館で開催されている「空也上人と六波羅蜜寺」展に行ってきました。京都の六波羅蜜寺には幾度か訪れたことがあるので、私にとっては久しぶりにお馴染みの仏像との対面になりました。鎌倉時代の写実性に富む慶派の仏像に、若い頃から惹かれ続けてきた私には空也上人像は特別な仏像で、その口から漏れた言葉の一つ一つが阿弥陀如来の姿に変化している造形は、漫画のフキダシのようであり、斬新な特徴を有しています。また寺とは違い、360度どこからでも鑑賞できる博物館の展示は、とりわけ仏像の背面を見ることができて感慨一入でした。空也上人とはどんな人物だったのでしょうか。彼は平安時代中期に生きた僧侶で、庶民層の歎きに耳を傾けていた点で「市聖」と呼ばれていたようです。図録から生涯を記した箇所を引用いたします。「若い頃から、在俗の仏教信仰者として諸国をめぐって名山霊窟で修行をした。荒野に死体が捨てられていれば、一か所に積み上げて油を注いで焼き、南無阿弥陀仏をとなえて弔った。二十余歳になると、尾張(現在の愛知県)の国分寺で剃髪し、自ら空也を名乗った。播磨国(現在の兵庫県)峰相寺に籠っては数年をかけて一切経を閲覧し、阿波・土佐(現在の徳島県と高知県)の国境の湯島という観音菩薩の霊験で有名な島に詣でては、苦行の末に観音菩薩に見えたという。仏教の教えの届きにくい陸奥・出羽(現在の東北地方)にも教化に赴いた。天慶七年(938)、平安京に戻り、托鉢をして得るものがあれば貧しい人や病人に施したため、人びとは上人を『市聖』と呼んだ。また常日頃より休むことなく『南無阿弥陀仏』をとなえたので、人びとは上人を『阿弥陀聖』とも呼んだ。」また、運慶の四男であった康勝が作った空也上人像が、今なお優れた内容をもつ木彫になっていることに私は喜びを隠せません。「一千年以上前に民衆の幸せに生涯をささげた空也上人が、現代でもなおこれほどまでに人びとの記憶に刻まれているのは、仏師の卓越した描写力と、休みなく『南無阿弥陀仏』をとなえつづけたという上人の行状を巧みに造形化した創造性との絶妙なバランスをもつ本像の存在無しには考えられないだろう。~略~平安京における空也上人の最も大きな事業は、人びとの生活をおびやかす災異消除を願った大般若経の書写と十一面観音菩薩立像等の造像だった。この時に造られた十一面観音立像と四天王立像は、争乱の多かった平安京にあって、歴史の波をくぐりぬけながら奇跡的にも守り伝えられ、今もなお人びとの安寧と幸福を見守っている。」(引用は全て皿井舞著)