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「『ウィーン工房』のブランド確立へ」のまとめ②
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第五章 『ウィーン工房』のブランド確立へ」の後半部分をまとめます。ここではドイツ並びにオーストリア工作連盟について書かれていました。「クンストシャウの前年、1907年10月にミュンヘンにて芸術家、職人、企業家の連合体であるドイツ工作連盟が結成された。これは、ヨーロッパ近代デザイン運動の主眼が工芸改革から機械化と市場経済の問題へと移行したことを象徴する出来事であった。~略~ドイツ工作連盟の活動が拡大する中で、オーストリア、スイスから参加したメンバーに自国の独立機関を求める動きが生じた。1912年にオーストリア人メンバーが独立し、オーストリア工作連盟を結成した。~略~ドイツ工作連盟との決定的な差異として、オーストリア工作連盟は機械化された産業社会のための近代的デザインを創造できなかった。オーストリアではウィーンを中心に、後のバウハウスに継承されるような合理的、機能的な工業化された近代デザインよりも、デザイナーの感性と技が生み出す優美な美術工芸品が好まれたのである。」ここで装飾的なウィーンのデザイン傾向に反対する建築家が登場してきます。「数少ない対抗者として反工作連盟の猛批判を展開したのは、彼らの活動に自意識過剰な近代主義者の欺瞞を見出したアドルフ・ロースである。ロースとホフマンは、どちらも1870年生まれのブルノ出身でウィーンの代表的な近代建築家であるが、二人の建築理念は大きく異なった。ロースは、世紀転換期にはウィーンの芸術刷新運動の賛同者であった。~略~(ロースの)建築に見られる古典主義の影響を受けた厳格な対称性、大理石や木材等の素材自体の優雅な質感は、1920年代のインターナショナル・スタイルの非対称性の無機質な平面とは異質である。ロースにとり、建築の簡潔さは機能の表現ではなく様式の問題であった。そして、時代に応じた様式は根本的な資質、形態、空間性が飾られずに現れたときに明らかになるという信念から、装飾は破棄された。」ウィーンの旧市街にロース設計による簡潔な建物があり、周囲のバロック建築群の中では新しさが際立っていました。1914年にケルンで開催された工作連盟展の様子を書いた箇所がありました。「分裂と混乱に見舞われたドイツの展示が不振であった一方、~略~オーストリア工作連盟は結成当初からドイツ側に評価されていたオーストリア近代工芸の強固な芸術的・手工芸的基礎を、あらためて明示した。展覧会の様相や関係者の発言から、同じ工作連盟という名の組織でありながら、ドイツとオーストリアではその性格が大きく異なっていたことは明白である。こうしたオーストリアの産業的仕事の独自性を最も鮮やかに印象的に表現したのは、ウィーン工房デザイナーたちによって装飾的にデザインされた工芸品、日用品であった。1908年のクンストシャウで確立されたウィーン工房のブランド性は、1912年の春季オーストリア工芸展、1914年のケルンでの工作連盟展を経て、一層揺るぎないものとなり、『ウィーン工房』は国家を代表するブランドとなった。」今回はここまでにします。